“子育て”するウルトラマンを描く『Ultraman: Rising』 日米合作の意義と特撮文化の出自

『Ultraman: Rising』日米合作の意義

子育てをするウルトラマン

 『Ultraman: Rising』のウルトラマンは、子育てをする。そして、「有害な男らしさ」問題を意識しながら、新しい男性性のロールモデルを描こうとしている。

 本作の中心にあるのは、主人公であるウルトラマンの“子育て”である。それも、「敵」であると見做されていた怪獣の赤ん坊を拾ってしまったので、やむなく育てることになるのである。

 野球選手でもある主人公ケンジは、最初は責任を放棄しようとするが、育てることに決め、ご飯をあげ、ウンチの処理をするが、それがあまりに大変で、野球の成績もどんどん落ちていく。母親の役割をここで主人公が担い、それが職業生活にどれだけ負担になるのかを体感させる点には、フェミニズム的な意図も感じさせられる。

 子育てがつらく、子供を育てている友人に電話で相談すると、彼女は、「子どもは小さな怪獣よ」「子どもってまるで小さな怪獣だもの」(前者は字幕、後者は吹き替え)と述べる。

 「怪獣」は様々なもののメタファーを担わされてきた歴史があり、本多猪四郎の怪獣映画では土着的な古い日本というニュアンスが強く、ギレルモ・デル・トロの『シェイプ・オブ・ウォーター』では大多数に馴染めない「マイノリティ」の象徴となってきたが、本作ではそれを「子ども」「赤ちゃん」に設定したところが、ユニークである。その結果、「怪獣」は「敵」ではなくなるのだ。

 最終的に、ウルトラマンが戦うのは、怪獣ではなく、人間である。怪獣に妻と娘を殺されたがゆえに、怪獣を皆殺しにしなくてはいけないという、「戦争」的な考え方をしている者が悪役となり、血も繋がっておらず、種族すら違う「怪獣」を見返りなく育てて絆を形成したケンジとその父と対立することになる。

 「怪獣」や「悪魔」などは、戦争のときに、敵を「同じ人間」ではなく殺戮しても良い存在だと思わせるために使われやすいレトリックである。そのような「敵」を殺戮するのではなく、和解し、共に生きるのだということこそが、本作で肯定されているのだ。怪獣と人間の間の親子関係の描き方を見るに、血縁家族である必要もないのではないかというメッセージすらあるようにも思われる。

 「男」であるから、大切なものを守るために、弱い自分の中身の感情を抑え、強い殻を纏う必要がある、というのが、これまでの「男らしさ」の考え方であった。戦場で、殺したり殺されたりする状況を生きるために、そのようになる必要があることは、確かだろう。戦後日本では「戦争」の延長線上で労働も考えられており、ヒーローが「変身」して「機械の体」になったり、生身の子どもが機械のロボットを操縦し力を得ることなどは、社会化されタフに厳しい「戦い」=「労働」をしていくことの象徴と理解されてきた。本作は、それをひっくり返す。むしろ、「変身」したウルトラマンの方こそ、サイズ的に、子育てをするに相応しい。子育てをするためには、そのような硬く閉ざされた孤独な心でいてはいけない。

 子育てと仕事の両立に苦しみ、鬱になり、自殺すら思い浮かぶようにケンジはなっていく。彼は、友達もいない、家族もいない、相談できる相手もいない、孤独な生活をしている。野球は不調で、ウルトラマンとして街を守る仕事も、理解されない、感謝されない、報酬もない、痛い、それでやる気なくして不貞腐れている。

 その状態で相談した相手の女性は、「弱さ」を見せていい、ウルトラマンじゃないんだから、という旨を言う。ケンジ自身が出演したCMで、ケンジは自分で「自分のケアは大事だぜ」と言っているが、自分自身は全然できていないという皮肉も描かれる。

「弱さ」を認めるウルトラマン

 自分ひとりで何もかもをする、ということを諦め、ケンジは反発心を覚えていた父親に連絡し、助けを求める。自分の弱さを見つめ、誰かに頼る、ということを、彼は徐々に覚えていく。同じくウルトラマンである父親に、ケンジは、守れるのか不安じゃないかと訊ねすらする。父親は、毎日不安だと答える。ヒーローは、強く見せかけなければいけないので、自らの不安や恐怖心などを見せることは稀で、フィクションで描かれる機会も少ないが、ここで、ヒーローであることの不安、孤独、恐怖などが語られ、互いにケアし合う状況が描かれている。

 父親は、「大事なのは戦う力ではなく心」であり、調和とバランスなのだと言う。本作のカラータイマーの設定は、時間制限ではなく、ストレスを感じて精神が不安定になるとカラータイマーが鳴って人間に戻るというものになっている。だから、本作が、単なる強さではなく、戦うことと、精神的安定のバランスを取ることのロールモデルを描こうとしていることは明らかだろう。

 三浦建太郎の漫画『ベルセルク』にしろ、宮﨑駿のアニメ映画『ハウルの動く城』にせよ、「戦う」ということは綺麗事ではなく、想像を絶するストレスのかかることであり、「狂戦士」にならねばやり遂げられないような状況は頻繁にある。それを単に否定できるのは、自身が安全地帯にいながら、その安全を維持するために誰が何を負担しているのかに無知な者だけだろう。戦いは心を蝕み、食いつぶしていく。そうならなければ戦えない、勝てない状況はある。しかし、その蝕まれた心は、やがて、守るべき対象をも破壊していくことになりがちである。そうならないようにするためにはどうすればいいのか? 戦いながらも、心を安定させ、調和を見つけ、「狂戦士」にならないようにすればどうすればいいのだろうか?

 その答えは、曖昧ながら、「家族」ということになるのだろう。あるいは、エゴを超えて、誰かのために生きる、ということだろうか。父の助けを借りて、怪獣の赤ん坊をちゃんと育てていくようになると、ケンジは「精神的成長」をしていき、野球もうまくいくようになり、優勝することになる。そのとき、ケンジは、自分が天才だから優勝できたのだ的な態度を捨て、我を張らず、チームの一員として感謝を示すことになる。独善的で思いあがったエゴイストの段階から、子育てを通じて、父親を理解し――自分を放置してウルトラマンになって怪獣にかまけていたのではなく、今の自分と同じように、そうせざるを得ない状況があったのだと知ることで、アダルトチルドレン的な心理的なわだかまりを克服し、和解する――それを通じて、他者一般との繋がりを体感し、謙虚になっていくことこそが重要だと言おうとしているようである。それは、西洋思想的な「個」「自由」を重視するあり方というよりは、「私」よりも家族や社会などの関係を重視する東洋思想的なあり方のようにも思われる。アメリカで野球選手として活躍していたケンジが、日本に戻ってきて不調になり、克服する、という流れに、ケンジにおいてこのような西洋と東洋のあり方の両方を「調和」させる新しいあり方の模索というニュアンスすら感じさせられる。

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