『ブギウギ』が問い続けた“エンタメは誰のためにあるのか” スズ子が最後に対峙する“時代”

『ブギウギ』が全話を通して問い続けたもの

 残すところあと5話となった朝ドラ『ブギウギ』(NHK総合)の中で、最も印象的だったのは、ヒロイン・スズ子(趣里)の父・梅吉(柳葉敏郎)のセリフかもしれない。

 それは、第9週「カカシみたいなワテ」第42話のシーンである。花田家の中心的存在だった母・ツヤ(水川あさみ)を亡くした後、梅吉は営んでいた銭湯「はな湯」を託し、スズ子と暮らすことに。東京の地で映画監督の夢を再燃させ、脚本作りに息巻いていたものの、その情熱は一年足らずで途絶えてしまう。脚本はもう書かないのかと問われた梅吉は、酩酊状態でこのような言葉を口にする。

「やめや、しょうもない。映画は人を助けてくれへん」

左から、福来スズ子(趣里)、花田梅吉(柳葉敏郎)。 伝蔵の屋台にて。公演後に梅吉と並んでおでんを食べるスズ子。

 これは映画に限った話ではなく、音楽や舞台、ひいてはエンターテインメントすべてに共通する“真理”なのかもしれない。もちろんそれには『ブギウギ』をはじめとしたドラマも含まれるだろう。

 エンタメを享受する者の一人として、作品や音楽に救われたことは数えきれないほどある。しかし、その恩恵は目に見えるものではなく、物理的なものでもない。歌を聞いても腹は膨れず、お金が湧いてくるわけでもない。戦時中には「不要不急」のレッテルを貼られ、国の意向に従えと隅に追いやられるスズ子たちの姿を、私たちは何度も目にしている。

 このセリフを聞いた時、とても驚いた。『ブギウギ』という作品を手がけている人たちが、スズ子と同じく“エンターテインメントを提供する立場”でありながら、エンターテインメントが人を助けられないと思っていることに。彼らが己に向けている眼差しがとてもシビアなことに、私は驚いたのである。

 いわば『ブギウギ』は、ブギの女王・福来スズ子の生涯を通して、作り手たち自身がエンターテインメントの在り方を問いつづけてきた物語なのではないだろうか。

 エンターテインメントの限界を、スズ子自身も痛感するシーンがある。第10週「大空の弟」でのことだ。歳の離れた弟・六郎(黒崎煌代)が戦死したとの知らせを受けたスズ子は、明るく振る舞おうとするものの、ついに歌えなくなってしまう。

 そこで羽鳥(草彅剛)は茨田りつ子(菊地凛子)との合同コンサートを提案し、六郎への思いを込めた新曲「大空の弟」をスズ子に授ける。なんとか調子を取り戻して本番を迎えたスズ子だったが、歌いきった後にステージ上で泣き崩れてしまう。恩師の羽鳥から貰った“宝物みたいな歌”さえも、悲しみのスズ子を救えなかったという象徴的なシーンだ。

 しかし、スズ子は立ち上がる。しっかりしなさいという羽鳥の言葉をきっかけに、スズ子自身の力で立ち上がるのだ。そして音楽の神様に導かれるように、再びマイクの前に立ち、自身の気持ちとは裏腹の「ラッパと娘」で会場を沸かせる。弟の死という絶望と引き換えに、歌手としての天命を受け入れるような場面でもあった。

 さらに『ブギウギ』は、「エンターテインメントは誰のためにあるのか」という問いかけにも切り込んでいく。

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