『君たちはどう生きるか』を徹底考察 われわれ観客に対する宮﨑駿監督の“問いかけ”

『君たちはどう生きるか』を徹底解説

ガラス容器に包まれた世界

 本作の物語では、その後つわりがひどく病床に伏していた夏子おばさんが突然に姿を消すという事件が起こる。その直前にふらふらと彼女がこの塔の方へと歩いていくのを目撃していた眞人は、彼女を救い出すため、そして母親が生きているという、怪しいアオサギの言葉に誘われて、老齢の女中キリコとともに塔へと侵入。そして、ついに地下へと降り立つのだった。

 この建造物が幽霊塔と異なるのは、この塔の中に、天変地異がもたらした巨大な石があるという点であり、それがもたらす不思議な力によって生み出された、海と島がかたちづくる、一つの世界が存在するという部分だ。建物やドアの先に別の世界が広がっているというのは、児童文学や絵本によく見られる設定である。

 そこに住むペリカンの一族の者は、食糧を求めて海を旅していっても、結局は元の島へ戻ってしまうのだと劇中で語っている。そこから類推すると、陸地は海にただ一つしか存在しないと考えられ、おそらく地球より小さな惑星状のかたちで世界全体が構成されているようだ。ここでは、少年が魔法使いから手に入れた小さな星を育てていくという、宮﨑駿の脚本・監督の短編作品『星をかった日』(2006年)が想起される。

 そこで高度な文明を築いているのは、人間のように進化したセキセイインコの王国のみであり、塔の外の世界……つまりは現実のように同じ種が殺し合うような大規模な戦争が起きているわけではない。その意味でこの一種の箱庭世界は、一見するとユートピアと呼べる場所なのかもしれない。眞人はここで、若き日のキリコや、炎を操る謎の少女ヒミと出会い、ついには塔で命が尽きたといわれ、石との“契約”により世界を創造した大おじとも邂逅することになる。

 大おじはどのように世界を生み出したのか。彼は宇宙から飛来したと思われる巨大な石の不思議な力にいちはやく気づき、その力を我がものにするため、その周りに建造物を作らせ、他の者には簡単に到達できぬようにしたのだろう。そして、“意志を持つ石”との交流と契約によって、『星をかった日』同様に、理想の世界を作る権利を得るに至った。また、その力は血の繋がりがある者にしか受け継げないようにもしている。

 とはいえ、この世界づくりには問題もあった。新たな世界を築く材料として石が必要になるというのだが、その石には悪意を持ったものと持たないものがあるのだという。大おじが理想とする世界とは、争いと憎しみのない善意だけの清浄な環境であったが、悪意を持たない石はごく限られている。彼はわずか13個の積み石をバランス良く積み上げるしかなく、その結果として、この小さく限定されたシンプルな世界が生み出されることとなったのだと考えられる。

 “清浄”な世界を希求する人間の願いというのは、宮﨑駿による漫画版『風の谷のナウシカ』にも描かれている。そこで表現されるのは、絶滅に瀕した人間の窮状と、愚かな過去の行為への後悔だ。人間の生み出した文明には、核兵器に代表される、自らをも滅ぼしてしまう破壊的な科学技術があり、未来を生きる新たな人間は、そういった破滅の道を辿らないよう、音楽や詩のような限られた文化だけを愛するべきだという考えが、一つの価値観として示されている。人類が生み出した核によって、人類自体が荒廃するといった悲観的な考え方は、短編アニメーション『On Your Mark』(1995年)でも、チェルノブイリ原子力発電所事故によって建造された「石棺(放射能を閉じ込めようとする建造物)」のイメージとして登場している。

 本作でも石の墓所が出てくるが、眞人がそこから強い悪意を感じたように、世界にけして組み込むべきではない、おそらくは核技術や、それと同等の危険な文明の種となり得る恐ろしい石が、おそらくはこの世界を作り上げた大おじによって封印してあるのだろう。門には警告文が象られ、周りには死を暗示する、アルノルト・ベックリンの絵画シリーズ『死の島』を連想させる糸杉が丁寧にも植っている。また黒澤明の『夢』にも、後の原発事故を予言するような、核汚染の恐ろしさが描かれていた。

 そんな邪悪なものを排していくという、大おじの理想が投影された、清浄なものだけの人工世界は、少なからず矛盾も抱えている。ペリカンの一族たちは苦しみにあえいでいるし、飛び方を忘れ王国を築いているセキセイインコたちは、人間風の階級制度のなかに置かれ、無尽蔵に増殖し続けているではないか。このような問題問題を裏に隠した“清浄なる世界”の裏の顔は、漫画版『風の谷のナウシカ』やビジュアルブック『シュナの旅』などで、すでに宮﨑が描いていたテーマだ。

 そして『天空の城ラピュタ』(1986年)で発せられた「人は土から離れては生きられない」という言葉には、極度に文明が発達し自然を思うままに支配した、人工的で清潔な環境には真の人間性は存在せず、土にまみれながら自然と共生し、その一部となっておこぼれをいただくといった謙虚な姿勢を忘れてはならないといった旨が暗示されている。その意味で、大おじの清浄な理想を反映させたと思われる創造の世界もまた、人間の分をわきまえない、他の生命を自己満足で利用しようとするガラス容器の中の“人工の自然”たるガラス容器の中の世界であり、同時に破壊されるべき「バベルの塔」だったのではないか。

生きることと汚れること

 眞人は『天空の城ラピュタ』の『天空の城ラピュタ』のパズーやシータのように、この人工的な世界を捨てて、穢れのある現実への帰還を果たすことになる。この冒険と帰還における冒険にまつわる一連のプロセスには、主人公が自身の人間性にまつわる問題を乗り越え、成長するといったステップが含まれている。それでは、主人公・眞人の内的な問題とは何か。それはやはり、清浄さ、清らかさを潔癖なまでに求めてしまうという点だろう。客観的に見て、眞人はハキハキとして芯のある、正義感の強い少年だと感じられる。しかし、だからこそ彼は、自分以外の人間が俗っぽいところを見せたとき、理想の高く年若い者によくある特徴として、生理的な嫌悪感を抱いているように見える。

 屋敷の使用人たちの物欲しそうな態度を見て、そういった言動を聞くうちに、彼は呆れたような態度を隠せなくなっていく。父親が母親の妹である夏子おばさんと結婚するのも、二人が口付けをする音を聞くのにも複雑な感情を抱いてしまう。“汚い、不潔だ”……眞人は母親への思慕の情もあり、密かにそのような侮蔑を心に宿していたのではないか。その感情は直接的に描かれているわけではないが、わざわざこのようなシーンが配置されているところに、監督の意図が隠されていると見るべきだ。

 しかし、眞人自身は本当に清廉な人間なのだろうか。彼は、汚いはずの父親によって養われているのである。父親の工場は戦闘機の部品の製造を請け負っていて、戦況が悪化して兵士が死んでいっても、逆に特需として喜んでいる節さえある。これは戦争中、宮﨑駿の伯父が飛行機部品の工場を実際に経営していたという事情があり、軍需産業の利益を自身も得ていたことに、後年葛藤を覚えるようになった実話がベースにあると考えられる。

 出征する兵隊や見送る団体に出くわすと、うやうやしく頭を下げてみせる眞人の姿は一見立派に思えるが、死者の亡骸の上に成り立つ利益によって、特権的な生活を送っている者の一人であることも事実なのである。もちろんそれを全て眞人の責任だとして責めてしまってはかわいそうだ。しかし彼が許されるのならば、彼以外の人間が生きるための理由から、やむを得ずに手を汚すこともまた看過されなければならない。

 生きるということは、汚れることでもある。眞人がキリコに促され、大魚の腹を切り裂く場面がある。体液が流れ、鮮血がほとばしり、臓物が飛び出してくる。そういったものにまみれることで、彼は汚れることに尊い側面があることや、いかに大変な労働であるのかを知ることとなる。実際に、動物を殺す作業や、肉や魚を解体する作業があるからこそ、人は食物を口することができるのだ。その作業にかかわらない者が、肉や魚を食べながら、その役割を果たす人を汚いと思ったり、味に文句をつける……それは少なくとも清廉な人間の行いではないだろう。むしろ汚い役割を引き受ける人間のなかにこそ、清い心があるのではないか。

 このあたりは、眞人が母親から与えられた書籍であり、本作自体のタイトルともなっている、吉野源三郎が記した『君たちはどう生きるか』が、メッセージを理解するための補助線になり得ると考えられる。この本は、“人生をいかに生きるべきか”という難題をテーマに、子どもたちに向けた哲学的な道徳書といえるもので、地動説を唱えた「コペルニクス」の名を“あだ名”にもらった“コペル君”という主人公の少年が、理解あるインテリの叔父さんと意見を交換し合うといったかたちで、社会のさまざまなトピックが俎上に載せられる。

 コペル君は、貧しい生活ながら家業を助けて油揚げを作っている同級生の姿を見たり、自分の家にあった粉ミルクの缶が台所の棚に置かれる自分のもとに届くまでに、いかに多くの人々の手がかかっているか、そのことをどう理解するべきなのかを、叔父さんの導きとともに考えていく。不平等な現実やきれいごとだけでは済まない社会……そんな不完全な世界に生きるわれわれが、より良い生き方を選びとるためには、このような一定の倫理が必要だというのは、同意できるところだ。

 とくに日本人は、歴史的に儒教や仏教哲学などの影響が残ってはいるものの、善悪の観念が世界の国々に比べて比較的あやふやであるという指摘は、多くの人々になされているところだ。そしてそれが戦時に全体主義がたやすく国民を席巻することになった理由の一つに数えられるのかもしれない。その後、サルトルに代表される実存主義のブームや、ニューアカデミズムの流行などが見られた事実もあるが、大筋で日本人の誇りを支えることになったのは、戦後の復興や猛烈な労働によって経済成長を成し遂げたという実績であると考えられる。

 そして経済大国としての地位が揺らいでいる現在、過去の経済的な成功体験が神話化し、実効性ばかりがより注目されていると感じられる。学生運動や社会主義運動の闘争が凄惨な事件のイメージとして失墜した先に、極端な経済格差問題をも是認する「新自由主義」に代表される、倫理感が希薄な経済中心の考え方が、さまざまな問題を棚上げしながら、ある意味で日本社会の哲学であり宗教といえる存在になっていったというのが、率直に見た、現在の社会の姿なのではないだか。

 そして、学生時代に左翼運動に傾倒しながら、その足場の崩壊を経験しつつ、その後の日本の“思想なき思想”の流れを、時代とともに目にしてきた宮﨑監督は、そんな日本人の姿勢に対する反発心を、『紅の豚』(1992年)に代表される自作の物語に反映していった。そんな宮﨑の考え方の核となったのが、いま思い返してみれば思春期に読んだ書籍『君たちはどう生きるか』だったということなのではないのだろうか。

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