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『毛虫のボロ』が成し遂げたことの意味とは? 宮崎駿監督による“紛れもない本気の新作”を徹底考察

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 『風立ちぬ』をもって長編アニメーション引退宣言を行った宮崎駿監督。その後、新しい長編企画(『君たちはどう生きるか』というタイトルが明らかになっている)の発表とともに引退は撤回された。この撤回までの間に、宮崎監督は三鷹の森ジブリ美術館の展示物や、そこで上映する短編アニメーションを製作していた。その短編が、『毛虫のボロ』である。

 『毛虫のボロ』は、TVアニメ1話分にも満たない14分という長さで、通常の劇場での一般公開を予定されてもいないため、制作・公開規模は、長編作品とは比較にならないほど小さい。とはいえ、製作状況がドキュメンタリー番組(NHKスペシャル『終わらない人 宮崎駿』)のなかで紹介され話題になるなど、その内容については多くの人々の関心を集めていた。

 「20年間夢見ながら叶わなかった幻の企画」だけに、実際に『毛虫のボロ』 を鑑賞すると、本作が宮崎監督にとって、長編制作までの息抜きなどではなく、前のめりになって作られた、紛れもない本気の新作だということがひしひしと伝わってくる。それだけでなく、いくつかの意味において、現在のアニメーション界のなかでも最新型の作品だと感じることができる作品だった。

 ここでは、そんな本作『毛虫のボロ』の内容を追いながら、「描写」、「CGへの挑戦」、「物語」という、主に三つの切り口から、本作が成し遂げたことの意味を、可能な限り深いところまで掘り起こしていきたい。

「描写」−“虫の眼”を持つこと−

 植物に付着した卵の殻を破り、一匹の生まれたての“毛虫のボロ”が「世界」を初めて見るところから、本作は始まる。ボロの周りにあるのは、不気味なもの(夜の魚)がうごめく闇の世界だ。

 だんだんと空が白み始め、ボロが葉の表面にたどり着くと、目に飛び込んできたのは広大な空間だ。様々な色をした大気の粒が躍動している。その光景は、印象派の画家、ジョルジュ・スーラの点描が映像化されているように感じられる。

 ボロは、立方体に近い形のほぼ無色透明な物質が、夥(おびただ)しい数で空間を漂っているのに気づく。それは、宮崎監督が名付けた「空気のゼリー」だ。虫のような小さな目から見ると、酸素や窒素などがこのように見えるのではないかという、空想の産物である。空気のゼリーは、わずかに発光しながら草木にぶつかり、自らの重量によってほろほろと崩れていく。ボロはゼリーにぶつかり、身体いっぱいに空気を吸い込む。おそらくこれは、いままでに誰も描いたことのない呼吸の表現だろう。

 次に驚かされるのは、陽の光が差し込んでくる描写だ。無数の光は棒状のかたちに質量をともなって、ボロに向かってくるのである。それがボロの身体に衝突して、液体の質感をともなって、するどく通り抜けていく。陽の光を物体として描くという発想も圧倒的だ。

 驚愕の凄写はまだまだ続く。ボロの食事シーンである。毛虫は葉っぱを食べるものだが、本作におけるその描き方は、凄まじく鬼気迫るものだった。植物の葉はたっぷりと水分を蓄えており、表面からも水滴が次々に染み出してくる。その内部では葉緑体が絶えずうごめき、光合成を行いながら虹色に輝いている。ボロは、水や養分を通す葉脈ごと葉っぱを切り取り飲み込んでいく。この圧倒的な描写力によって表現された、複雑で美しい命のシステムを、自分の栄養にするためボロが吸収していく様子は、観る側もうっとりとした快感を味わい、同時にほのかな背徳感をもともなう。その表現は、もはや官能的だとすらいえる。

 空気を吸う、陽の光を浴びる、葉っぱを食べる。このような、毛虫にとっての日常的な生活の風景が、これまでに見たことのない圧倒的な表現で迫ってくる。自然の環境は、じつはこのように圧倒的に複雑なディテールによって構成されている。多くの人間は、それに気づかずに生活しているのだ。

 だが言ってしまえば、このような表現は“嘘”である。空気はゼリー状で漂うことなどないし、光は棒状の物質となって迫ってはこない。葉っぱをどこまで拡大していって映像に収めても、本作のような光景は見られないだろう。もちろん、アニメにはこのような現実離れした表現がつきものだ。しかし、ここでの表現は、よくあるアニメの演出における誇張とは異質なもののように思える。

 宮崎監督は、これまでの作品でも、このようなリアリスティックな嘘をよくついている。『もののけ姫』で、アシタカが移動中に遠方から矢を射かけられる場面がある。距離があるため、矢の軌道は山なりになって、アシタカを真上から襲うことになる。その極端な角度には、幾分の誇張が含まれるのだが、観客は「なるほど、遠方からの矢はこうやって迫ってくるのか」と、事実に近い映像を見せられるよりも深く納得してしまう。むしろ誇張されている方が、物事を実感しやすい場合があるのだ。

 『熱風』(スタジオジブリ出版部)2010年7月号インタビューのなかで、宮崎監督は、iPadを操作して調べものをするインタビュアーに、このように言い放った。

「あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男たちへの感心も共感も、あなたには無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具として“iナントカ”を握りしめ、さすっているだけだからです」

 この発言はいささか乱暴にも聞こえるが、宮崎作品の表現方法を思い浮かべながら考えていくと、その真意が分かるはずだ。インターネットで弓矢の画像を調べ、コンピューターに矢の軌道計算をさせたところで、『もののけ姫』のような表現はできないだろう。

 人は生活のなかで、様々な体験をしながら起こる出来事を実感している。私は、人が本当に喜ぶ瞬間に、目の中の瞳孔がブワッと広がる瞬間を目撃したことがある。そのとき私は、嘘のない本当の喜びとは、瞳孔の広がりによって示されるものだということを、体験から理解することができた。このような一つひとつの体験を経て、人間は世界を実感していく。しかし、実写でそれを撮影するには、かなりカメラを目に近づけて接写しなければならない。だがアニメーションであれば、それを自由に表現することができるのだ。そうやって作られた映像は、「事実」をそのまま映した映像よりも「真実」に近いはずだ。

 優れたアニメーションや創作物は、事実を写し取ることを目指すのでなく、実感に裏打ちされた「真実」を表現することを目指すものである。ここでの誇張表現は、現実から離れる面白さを追うのではなく、現実以上の現実を生み出すための道具となっている。

 また、本作の効果音は全てタモリが声色によって表現するという実験的な手法を用いているが、それも前述しているような、「世界」を新たに見つめ直すための、宮崎監督による、いわばラディカル(急進的かつ根本的な)な試みの一つである。

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