『君たちはどう生きるか』を徹底考察 われわれ観客に対する宮﨑駿監督の“問いかけ”
君たちはどう生きるか
書籍『君たちはどう生きるか』のなかで叔父さんはコペル君への書簡において、コペルニクスが「地動説」を唱えて迫害された例を挙げ、いまでは非科学的な考え方となった「天動説」を“自分中心の考え方”だと述べている。そして、この自分中心、自分だけが得をしたいという身勝手さを、現在の社会で生きる人々が多く持っているとも指摘しているのだった。
こういう自分中心の考え方を抜け切っているという人は、広い世の中にも、実にまれなのだ。
殊(こと)に、損得にかかわることになると、自分を離れて正しく判断してゆくということは、非常にむずかしいことで、こういうことについてすら、コペルニクス風の考え方の出来る人は、非常に偉い人といっていい。たいがいの人が、手前捗手な考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、自分に都合のよいことだけを見てゆこうとするものなんだ。
しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。大きな真理は、そういう人の眼には、決してうつらないのだ。
(吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』)
だが、そんな若者への忠言も虚しく、この書籍が出版された後、日本は太平洋戦争へと突入し、全体主義の熱狂のなかで多くの若い命が奪われることとなった。この悲劇をさらに古い明治時代にはっきりと予言し、その問題点もつまびらかにしているのが、日本を代表する作家・夏目漱石だった。ちなみに『崖の上のポニョ』(2004年)が『草枕』にインスパイアされているように、漱石もまた宮﨑を構成するピースの一つである。その漱石の作品『三四郎』には、東京帝国大学に合格した青年・三四郎が、走る汽車の中で日本という国について、ある教師と語り合い薫陶を受ける場面がある。
三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。
熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓(ひいき)の引き倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。
(夏目漱石著『三四郎』)
日本がロシアに勝利を収め、諸外国に比肩する「一等国」となったと浮かれるムードのなか、このままでは日本は滅びると漱石が洞察できていたというのは、イギリスへの洋行経験があり、世界のスケールで自国を俯瞰できていたからだと考えられる。三四郎は地元にいたときは、自分中心、自国中心の考えにとらわれ、真理から遠いところにいた。だが、この教師の一連の言葉によって、自分の視点が偏った自分勝手なものだったことに気付かされたのである。
これこそが三四郎の本当の知識との最初の出会いであり、宮﨑駿の若い時分に受けた衝撃であったと考えられ、かつまた書籍『君たちはどう生きるか』の本質部分であるといえるのだ。この自分中心主義や偏狭なナショナリズムに対する批判は、すでに『風立ちぬ』において、「めでたい。日本が近代国家と思ってたのか」という台詞に集約されている。
しかし、「日本より頭の中のほうが広いでしょう」というように、個人の頭の中の世界は、知識や創造力が続く限り、どこまでも広がり飛躍していくことができる。本作における塔の中の一種の「テラリウム」もまた、理想の材料だけという制約はあるものの、“頭の中の世界”の反映といえるものだ。しかし、この潔癖な理論による理想世界もまた、崩壊を余儀なくされてしまう。その直接的な原因となったのが、セキセイインコの長といえるインコ大王の介入にあった。
この理想が破られるまでのプロセスは、社会主義を推し進めていたソビエト連邦や、毛沢東による中国の大躍進政策が瓦解していった経緯に重ね合わせることもできる。格差社会を生み出し、多数の幸福を追求するうえで不完全といえる資本主義に対し、ソ連や中国の政治思想の基となったマルクス主義は、世界を次の段階へ進ませようとする、カール・マルクスらの高邁な理想を追求しようとするものだった。しかし、その理論を運用し、多数の幸福を実現するためには、政府もまた公平でなくてはならない。
人間の善性による理想が、人間の卑怯さや功名心、不完全性によって崩壊していく……。これらの失墜の記憶は、宮﨑駿の現実の世界や理想に対する失望をもたらし、彼の作品を構成する世界観に繋がっているのだと想像できる。とはいえ本作で監督は、理想を持つこと自体を否定しているわけではない。眞人が石のかけらを持ち帰ったように、誰かの理想を受け継ぐこと、それを自分のものとして現実に立ち向かう姿勢を、本作は少年の成長とともに希望として表現しているのである。だからこそ眞人は、自分のなかの卑怯さにも対峙する必要があるのだ。
同時に、この“頭の中の世界”は、“創作”というもの自体のメタファーとしても成立している。宮﨑駿にとって、アニメーション作品や主人公もまた、自身の理想の投影であるのだ。だが、これまで作品を送り出し、社会現象といえるムーブメントを何度も発生させながら、表面的な表現ばかりが愛され、その核となる理想や思想に人々の目が向き難いことについて、苦々しい思いを抱いていたのではないか。だとすれば、アオサギが言うような、魔法にはたいした力がない、そんなものはすぐに忘れてしまうといった悲観的な見解にも説明がつく。
だが、たとえアニメ製作者たちのメッセージが、世の中にほとんど影響を与えないのだとしても、それが世界をほんの少しでも変える種になる可能性があるのならば、発信する意義はゼロではない。心血を注ぐ作品がただの暇潰しの消費物にしかなり得ないのは、悲しいことだ。そして創作がやれることをやりきったのならば、それがどう世の中で効力を発揮するのかは、結局のところ、受け止める観客自身の問題となる。だからこそ本作は、「君たちはどう生きるか」と、われわれに問いかけるのだ。
参照
※ https://book.asahi.com/article/14953353
■公開情報
『君たちはどう生きるか』
全国公開中
原作・脚本・監督:宮﨑駿
主題歌:米津玄師「地球儀」
製作:スタジオジブリ
配給:東宝
©2023 Studio Ghibli