『バビロン』で露呈したデイミアン・チャゼル監督の欠点 “ハリウッド”のおそろしい魔力

『バビロン』“盛大な失敗”の理由を解説

 そんな本作は、多額の製作費と、ブラッド・ピットやマーゴット・ロビーという二大スターを出演させながら、アメリカ本国での興行成績が振るわず、ビジネス的に厳しい状況にある。それだけでなく、批評家の反応も芳しくないことで、芸術作品としての価値もアピールできていないのが、正直なところである。

 もともと、過去の映画界を題材にした映画作品は、興行的に厳しいといわれているが、本作が批評家にも観客にも共感を呼びづらいものとなった結果には、それ以外にもさまざまな原因があると考えられる。その一つは、チャゼル監督の過去の映画に対する思い入れが、暴走し過ぎてしまった点にあるだろう。その最も顕著な部分が、さまざまな映画作品の映像を引用した、終盤の演出に集約されているといえる。

 そこで映し出される映画作品は、作中の設定では存在し得ないものが含まれている。それは、現在を生きるわれわれ観客に向けた、同じ時代を共有している監督の映画観が反映された映像であり、本編のストーリーとはうまく繋がらないものとなっている。にもかかわらず、部分的には主人公の思い出が重ねられているところが、やっかいなのだ。この混乱状態こそが、チャゼル監督の“映画愛”として認識することもできなくはないし、“映画の変革における光と闇”というテーマを浮かび上がらせたかったのも理解できなくはない。

 だが、そもそもハリウッドの一時代を描くよう試みたのは、誰でもないチャゼル監督自身なのである。そのうえで、その時代をも超えた“映画の変革”という、より大きなテーマへと飛躍し、そこにカタルシスを乗せていくためには、作中の要素が決定的に不足していたのではないか。

 もともとデイミアン・チャゼルという監督を、一人のアーティストとして最大限に評価している観客に対してであれば、この試みも自然に受け取れるかもしれない。だが、それ以外の観客には、既存の映像を繋ぎ合わせるという演出そのものが、映画学科の学生が試みてしまいそうな、独りよがりで、ありふれたナルシシズムとして映ってしまいかねない。

 劇中のセリフで“映画愛”が強調されるように、監督が映画界のなかで人一倍映画を愛しているというのであれば、既存の作品を羅列することで全体のバランスを崩す道を選ぶのでなく、自身が設定したスタイルを追求し、チャゼル監督が憧れた過去の映画作品と肩を並べられる性質の映画を成立させることで、示してほしいのである。

 同時に、まだ30代のチャゼル監督が、1920年代の映画業界を描く資質を十分に備えていたのかという点にも疑問がある。例えば、ビリー・ワイルダー監督が、消え去った無声映画時代の栄光と悲哀を描いた『サンセット大通り』(1950年)の脚本と演出を手がけたときには、それこそグロリア・スワンソンやエリッヒ・フォン・シュトロハイムなど、過去の伝説的存在を出演させることで説得力を持たせていた。また、デヴィッド・フィンチャー監督の『Mank/マンク』(2020年)では、彼の父親ジャック・フィンチャーの執筆した、ハーマン・J・マンキーウィッツの伝記が基になっている。これの作品には、過去の時代への直接的、もしくは間接的なリンクが存在し、この題材を選択する必然性が感じられる。

 対してチャゼル監督は、1920年代の狂騒のハリウッドへの憧れや、漠然としたイメージを基にしているだけで、彼自身がこの題材を撮らねばならない客観的な理由や切迫性が欠けているように思える。そもそも、コアな映画ファンであれば、そのなかのかなりの人々が、20年代ハリウッドの世界に憧れを抱いているものなのだ。

 そして、『ハリウッド・バビロン』のような悪趣味な内容を参考とするような作風が、監督の資質に合致しているとも思えない。なので、後半で登場する、おそらくは本作があえて空想的であることを強調する予防線であるところの、現実的ではないロサンゼルスの暗黒の地下世界が、全体からとくに浮き上がってしまっているのである。

 チャゼル監督は、『ハリウッド・バビロン』の本来の魅力である、“ビザール”な表現がそもそも不得手なのだろう。そればかりか、『セッション』(2014年)では表現できていたスリルも、本作では不足している。本来なら緊張感をみなぎらせなければならないはずの、ギャングの描写にもリアリティを与えることができず、ほとんどコメディのような場面の連続になってしまっている。また劇中で、ある仕組みがバレて主人公たちが窮地に陥るサスペンスシーンは、重要な見せ場でありながら、何の工夫も見られない凡庸な出来に終わっているのだ。

 本作の空疎な印象がさらに露呈してしまっているのが、ネリーが映画の資金集めのためにブルジョワたちのパーティーに出席する場面だ。ここでロスチャイルドなど実在の家柄を名乗る富豪たちは、徹底的にネリーを嘲り、笑いものにする。そんな不遜な態度に怒ったネリーは、ブルジョワに対しての不満を、文字通り“吐き出す”ことになるのだった。

 これは一見、「あっぱれ」と言いたくなるシーンのように思えるが、そもそも、初対面の女優をパーティーの席で囲んで集団でバカにするというシチュエーションは、かなり不自然なのではないか。これはおそらく、“ゲロ吐き”シーンがまず念頭にあって、それを成立させるべく逆算し、わざわざ用意された場面設定なのだと思える。そのように考えると、ここで登場する人々の存在や一挙手一投足は、作中で貧しい生まれの女優のパッションや反骨精神をただ際立たせるための“記号”に過ぎないことになる。

 本作におけるブルジョワが、たとえそのような役回りに過ぎないとしても、それぞれを“生きたキャラクター”として、立体的に表現することもできたはずだ。つまり、ここでのブルジョワのイメージ自体がきわめて貧困なのである。そんな、実際には存在しないほどに誇張され、都合良くカスタマイズされた“記号”にゲロを吐きかけたところで、カタルシスが発生するわけもない。そればかりか、監督が反骨を示さなければならないと考えている業界の状況を、監督自身が見誤って中指を突き立ててしまっている可能性すらある。

 残念ながら『バビロン』は、あえて巨匠監督のように本格派のスタイルに挑戦したことで、「早熟の天才監督」と評価されていたデイミアン・チャゼル監督に、年齢なりにまだ欠けている点が数多くあることが、はっきりと露呈した一作となってしまったといえるだろう。私見だが、少なくともいまのチャゼル監督は、マーティン・スコセッシ監督や、フランシス・フォード・コッポラ監督、ポール・トーマス・アンダーソン監督のように、大きなスケールで時代や業界を捉えるといった複合的な視点からでなく、個人の視点から見える限定的な世界を題材にした方が、完成度が高いものになるのではないだろうか。

 であれば本作にも、『ラ・ラ・ランド』がそうであったように、その憧れをロマンティックなミュージカルに変換するような極端な仕組みや、『セッション』のように閉鎖的な場面設定に限定するような仕組みが必要だったのではないか。例えば、あの豪奢なパーティー会場だけを舞台に、1人か数人のみの視点で、一夜の狂乱を観客に体験させるといった作品を、1時間半くらいの尺で完成させられれば、批評家の反応も悪くなかったのではないかと想像する。本作で最も力があったのは、やはり『ハリウッド・バビロン』への憧れを象徴する、あのパーティーの描写だと思えるからである。

 とはいえ、このチャゼル監督の盛大な失敗といえる結果は、ゴシップで彩られた本作の題材からすれば、ある意味合致しているという意味で、ロマンティックな生け贄となったといえるのではないか。何にせよ、チャゼル監督は、より若い日々の妄想を、大きな予算をかけて形にするという、凡百の映画好きには決して成し得ない奇跡を達成したことは確かなのだ。そのこと自体には、われわれ映画を愛する者たちは、羨望と嫉妬の念を覚えずにおれない。そんなチャゼル監督を、そしてわれわれをも惹きつけ、狂騒と混乱の渦へと巻き込もうとする“ハリウッド”という場所には、間違いなくおそろしい魔力が存在するのである。

■公開情報
『バビロン』
全国公開中
出演:ブラッド・ピット、マーゴット・ロビー、ディエゴ・カルバ、ジーン・スマート、ジョヴァン・アデポ、リー・ジュン・リー、P・J・バーン、ルーカス・ハース、オリヴィア・ハミルトン、トビー・マグワイア、マックス・ミンゲラ、ローリー・スコーヴェル、キャサリン・ウォーターストン、フリー、ジェフ・ガーリン、エリック・ロバーツ、イーサン・サプリ―、サマラ・ウィーヴィング、オリヴィア・ワイルド
監督・脚本:デイミアン・チャゼル
製作:マーク・プラット、マシュー・プルーフ、オリヴィア・ハミルトン
製作総指揮:マイケル・ビューグ、トビー・マグワイア、ウィク・ゴッドフリー、ヘレン・エスタブルック、アダム・シーゲル
配給:東和ピクチャーズ
©︎2022 Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.
公式サイト:babylon-movie.jp
公式Twitter:@paramount_japan
公式Instagram:@paramount_japan

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