『どうする家康』とはリンクせず? 木村拓哉主演『レジェンド&バタフライ』の“新しさ”

木村拓哉が“いま”織田信長を演じた意義

 NHK大河ドラマ『どうする家康』(NHK総合)の序盤において、主人公・家康(現時点では松平信康)に「良くも悪くも多大な影響を与えた人物」として、思いのほか重要な役割を担っている「織田信長」。演ずるのは、家康を演じる松本潤の事務所の先輩であり、大河ドラマの主演経験という意味でも先輩にあたる岡田准一だ。

岡田准一の織田信長はまさに狼 『どうする家康』への貢献度を読む

放送が始まったばかりの『どうする家康』(NHK総合)にて、さっそく猛威を振るっている岡田准一。彼が扮しているのはあの織田信長であ…

 その関係性も影響しているのだろう。幼き家康に「恐怖」を植え付けたあと、さらなる「魔王」然として、再び家康の前に現れた岡田信長は、「待ってろよ、竹千代。俺の白兎」という台詞に象徴されるように、完全に「仕上がった状態」の信長なのである。まさしく「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」を地でいくような信長のイメージだ。そんな中、もうひとりの「信長」が、現在全国のスクリーンで躍動している。それこそ、岡田と松本の「先輩」にあたる木村拓哉が、満を持して「信長」を演じた映画『レジェンド&バタフライ』だ。

 NHK大河ドラマ『龍馬伝』(2010年)や映画『るろうに剣心』シリーズなどの時代劇でも知られている大友啓史の監督作品であることはもとより、その脚本が『どうする家康』と同じ古沢良太(『コンフィデンスマンJP』シリーズ他)であることが、大きな注目を集めている本作。信長のみならず、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀など、共通して登場する人物も数多いこの2つの「世界」は、どのようにリンクしているのだろうか。結論から言うと、これが驚くほどリンクしていない。まったくの別世界なのだ。もちろん、「桶狭間の戦い」をはじめ、劇中で次々と巻き起こる「史実」は同じである。けれども、その「内実」が違っており……そもそも、信長をはじめ、登場人物たちの造形が、まったく異なっているのだ。そこには、本作の「成り立ち」によるところも大きいようだ。

 古沢曰く、まず最初にあったのは、「政略結婚で結ばれたカップルによるラブコメ」というアイデアだったという。それが、東映が準備していた「木村拓哉主演で織田信長をやる企画」と合わさって、いよいよ本格的に動き始めたのが、今回の映画という次第なのだ。さらにその後、信長の正室「濃姫」役が綾瀬はるかに決まり、監督が大友啓史に決まり……果ては「東映創立70周年記念作品」という冠がつくなど、スケールアップした形で生み出されることになった本作。その一方で、木村とほぼ同世代である古沢の頭の中には、「木村拓哉が主演のラブストーリーを、もう一度観たいという思い」があったという。そこで重要になってくるのが、『レジェンド&バタフライ』というタイトルにも暗示されているように、「伝説」の武将=信長と並ぶもうひとりの主役である信長の正室――「帰蝶」の名でも知られている「濃姫」の役割と人物造形なのだった。

 「美濃のマムシ」と呼ばれた戦国時代の梟雄・斉藤道三の息女である「濃姫」。1549年、織田勢と和議を結ぶための「政略結婚」として、信長に嫁ぐことになった彼女に関する歴史的な資料は乏しく、夫・信長との関係性はもちろん、その没年も含めて諸々の詳細は依然として不明のままである。しかし、だからこそ、想像を大いに膨らませることのできる人物として、信長にまつわる近年の歴史エンタメ作品においては、大胆な解釈や人物造形がなされることが多い(大河ドラマ『麒麟がくる』(2020年)で川口春奈が演じた「帰蝶」は、その一例だろう)。それは、本作においても同じである。ある意味、信長以上に「これまで見たことのない」濃姫が、本作には描き出されているのだ。自らの「意志」と「夢」を持ち、相手が誰であろうと思ったことはすぐ口にしてしまう「率直さ」はもちろん、信長以上に負けん気が強く、武術や体術の面でも信長を圧倒する、「自立した女性」としての濃姫。当時の社会においては、ある意味「異端」だったであろう濃姫が、本作では描かれているのだ。

 その一方で、木村拓哉演じる信長は、意外にも、なかなかその才覚を表さない。「尾張の大うつけ」と呼ばれた少年時代より、前田犬千代/前田利家(和田正人)、池田勝三郎/池田恒興(高橋努)ら、自身の郎党を引き連れ、傍若無人にふるまうその姿は、ある意味「異端」であり「傾奇者」ではあるのかもしれないが、濃姫からすると単なる跳ね返りの「カッコつけ」であり、何よりも「幼く」見えるのだった。第一印象からして最悪の2人。そんな信長の才覚は、結果的に「信長」の名前を広く世に知らしめることになる1560年の「桶狭間の戦い」に至っても、さほど変わっていない。軍議においても、どこかパッとしない信長。『どうする家康』における同時期の信長の仕上がり具合いに比べると、本作の信長はまったく「仕上がってない」のだ。そこで、濃姫の登場である。彼女は、夫・信長に密かに策を授けると同時に、そのやる気も奮い立たせる。挙句の果てには、出陣前に「敦盛」を舞ったという「逸話」まで創作、流布するのだった。そう、「戦国の覇者=織田信長」のイメージは、当時の社会における「異端」として、次第に共振し始めた信長と濃姫の2人によって「作り上げた」ものだった――というのが、本作の「肝」であり「新しさ」なのだ。

 しかし、戦地で目の当たりにする夥しい数の屍と、思うようにいかない現実は、やがて信長を蝕んでゆき……2人の心は、次第にすれ違い始めていく。そして濃姫は、もはや自分の意見に耳を傾けることをしなくなった信長のもとから去っていくのだった。だが、あるとき信長は思い知る。いまの自分に必要なのは、濃姫の存在なのだと。馬を走らせ、病床の濃姫のもとに駆け付ける信長。そう、この映画の基調となっているのは、やはり信長と濃姫の「ラブストーリー」なのだ。とはいえ、そこは戦国時代――しかも主人公は、織田信長である。2人の「思い」をじっくりていねいに描くには、あまりにもイベントが多過ぎるのだ。濃姫に背を押されて決意した1568年の「上洛」以降、劇中で描かれているだけでも「金ヶ崎の戦い」「比叡山の焼き討ち」「長篠の戦い」など、織田家の当主・信長の身辺は慌ただしい。いずれも生死をかけた戦いであり、無論、戦地に濃姫の姿はない。けれども本作は、やはりラブストーリーなのだろう。信長と濃姫のあいだには、2人で密かに夢見た「未来」があったのだから。

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