『鎌倉殿の13人』和田義盛と上総広常の死の違いとは? 面白さが加速する物語を読み解く
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、一体どこまで面白くなるのか。毎週高まっていく期待のさらに上をいく面白さに、息をするのも忘れてしまいそうだ。
また一人、愛すべき男が死んでしまった。和田義盛(横田栄司)である。巴御前(秋元才加)との理想的な夫婦関係や、実朝(柿澤勇人)との愛に満ちた主従関係を垣間見せるやり取りはじめ、彼の一挙一動が、本作において、どんなに癒しだったことか。また、鎌倉最大の激戦である和田合戦は、これまでの多くの戦いや、御家人たちの死を思い起こさせるものでもあった。
特に本稿は、第40・41回において重ねられた「上総広常(佐藤浩市)の死」(第15回「足固めの儀式」)と比較することによって、幾重にもねじれて繰り返される物語と、それによって示しだされる義時(小栗旬)と二人の鎌倉殿、つまりは頼朝(大泉洋)と実朝の人物像の変化と違いを考えてみたい。そしてそれは、罪のない男に罪を着せる「足固めの儀式」によって始まった、力で支配する「鎌倉殿と御家人」の主従関係を巡る物語が、再び「罪はない」男が罪を着せられることによって一巡し一つの区切りを迎えたことを示しているのである。
数話前から何かの前兆のように、義盛が広常と自身を重ねようとするかのような出来事が増えていった。例えばかつての広常のエピソードを自身のエピソードとして語ろうとしたり、広常が頼朝をそう呼んでいたように、義盛もまた実朝を「武衛」と呼びたがり、結果「羽林」と呼ぶようになったりしたことである。そういった「予兆」が蓄積された上での第40回、義時と大江広元(栗原英雄)は、今や御家人の最長老となった義盛に、かつての広常を重ねる。そして、広元が第15回で言った言葉と同じ言葉「最も頼りになるものは、最も恐ろしい」を今度は義時がもう一度繰り返す。
それからの流れは、第15回の展開を重ねずにはいられないからこそ、余計にスリリングだ。なぜなら、今回の騒動における立ち位置としては、当時の頼朝・梶原景時(中村獅童)を兼ねるポジションであるとも言える義時が、第15回の展開を自らの手でもう一度繰り返すことになってしまうのかを問う構造になっているからだ。だが、第40回地点では、繰り返そうとした物語が、「双六」をキーワードに、一旦違うゴールに到達するから面白い。
広常/義盛が共に、鎌倉殿と話す機会を得て、賛辞を贈られ、心から嬉しそうな顔をするまでは同じだ。だがその後が決定的に違う。広常は双六の賽に命運を委ねられた上で景時に斬られるというバッドエンドとなったが、義盛は、実朝のとりなしによって事なきを得て、双六をしようと持ち掛けられるというハッピーエンドとなった。しかし、最後の場面では、義時が双六を一人興じており、義盛の命運は未だ義時の手中にあることが示される。
そして第41回序盤、和田の挙兵を知った義時が双六の盤を勢いよく崩すことで、一度は回避された「繰り返しの物語」は再び復活する。義盛が死なない未来を未だ捨てきれずにいる実朝が、義盛に対して「わたしにはお前がいるのだ」と投げかけることが、広常を捨て駒にすると心に決めていた頼朝が、広常に対して「そなたがいるから、今のわしがおる」と言ったのと、皮肉にも重なる。その上で義盛は無数の矢に射られ、かつての広常と同じように「罪なき」謀反人として壮絶に死んでいく。それを見て泣き崩れる実朝は、かつての、ただ見ていることしかできなかった義時にも重なり、一瞬泣きそうな顔を見せるが表向きはどこまでも冷酷に振る舞う義時は、かつての頼朝に重なるのだった。