視聴者を混乱させた『ムーンナイト』 実験的な内容をどう理解すべきか(ネタバレあり)

実験的な『ムーンナイト』をどう理解すべきか

 しかし本作は、あるエピソードから物語が急展開を迎え、視聴者を混乱させることになる。それが、スティーヴンが精神病院で目覚めるといった描写がなされているという部分だ。それまでのムーンナイトの活躍は、精神に破綻をきたした孤独な人物の妄想に過ぎないという可能性が示されたのである。物語を素直に見れば、これ自体がムーンナイトを陥れるために作られた、敵の陰謀だと理解することができる。とはいえ、ここに仕掛けられた“毒”は、われわれ視聴者に底知れぬ不安を感じさせるものでもある。

ムーンナイト

 「オッカムの剃刀(かみそり)」という言葉をご存知だろうか。これは14世紀の哲学者ウィリアム・オブ・オッカムが提唱した考え方であり、その内容は、“ものごとを複雑に考え過ぎず、不要な仮定を削ぎ落として単純に思考する方が良い”というものだ。その思考法でいえば、エジプトの神々が人々と契約して、超常的な力を駆使した者たちが戦いを繰り広げているという、荒唐無稽な設定を信じるよりも、その内容が全部一人の人間が作り出した都合の良い妄想だと考えた方が、はるかに筋が通っていて分かりやすいのである。

 考えてみれば、これは多くの娯楽映画やコミックの内容にもいえることだ。そもそも創作物は、鑑賞者を思い通りならない現実から一時的に遠ざけ、非現実的な内容で魅了するためのものが少なくない。創作物そのものが、作者や鑑賞者にとっての都合の良い妄想であり、作りごとに過ぎないのである。本作の衝撃的な展開に、物語の中身以上の居心地の悪さを感じるのは、意識的であれ無意識的であれ、そのことを鑑賞者自身が理解しているからだろう。

 この考えでいくと、『ハリー・ポッター』シリーズは、過酷な環境に生きざるを得ない孤独な少年が生み出した妄想の物語であり、『キャプテン・アメリカ』は、スーパーパワーで国や世界を救うという、虚弱な少年の悲しい妄想の物語となる。

ムーンナイト

 そのような、より現実に近い考え方は、あらゆる創作物の夢から、われわれ鑑賞者を覚ませてしまう効能がある。このように観る者の興を削いだり、作品世界をぶち壊しかねない要素を入れ込んだヒーロー作品は、きわめて珍しいといえよう。これを一度見せてしまうと、どれだけ作中でフォローしようと、不快な気分自体は残り続けることになる。ある意味で、この“精神攻撃”は、鑑賞者自身も蝕まれてしまう、あらゆるヒーロー作品のなかで最強の攻撃といえるのではないだろうか。

 そんな不快な“真実”に対し、われわれ視聴者・観客は、どのような対抗策をとれば、創作物を信じ、その内容に意義を感じながら楽しんでいくことができるのだろうか。その突破口は、創作物のなかに別の“真実”を見つけることである。本作で描かれる神々の確執は、それぞれ別の角度から見た正義と正義のぶつかり合いだ。これは、現実の社会でしばしば見られるものであり、そこから鑑賞者は、何がしかの学びを得ることが可能なのだ。

ムーンナイト

 そして、スティーヴン/マークの人格が分裂した悲しい経緯が明かされる部分からは、本当にどうにもならない厳しい現実に対抗するためには、虚構が救いになり、生きていくための武器になり得ることを理解することができる。かつて、ユダヤ人を虐殺しようとするナチスドイツの捜索を逃れ、家族や知人らとともに隠れ家に潜伏していた少女アンネ・フランクは、その不自由で過酷な現実の日々を、妄想の力によって彩っていたという。

 あらゆる創作物が、妄想によって作られているのは確かだが、それは場合によって生きる力を呼び起こす希望となり、そのなかに織り込まれた世界の真実を発見し、そこから学ぶことで現実を生きやすくすることもできるのである。

ムーンナイト

 本作『ムーンナイト』は、多重人格障害や妄想という要素を描き、そこに不快なリアリティを与えることで、われわれにさまざまな気づきをもたらす一作となったといえるだろう。MCU作品で、このような実験的なものが生まれたというのは、驚きというほかない。ヒーロー作品の幅は、ここにきてさらに大きく拡張しているのである。

■配信情報
『ムーンナイト』
ディズニープラスにて独占配信中
(c)2022 Disney and its related entities

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