『ちいかわ』のキャラたちはなぜ“名前で呼ばれない”のか? 初見勢が観た劇場版の衝撃

どの映画館も怒涛の上映スケジュールで公開を迎えた『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』。初日初回の上映はちいかわグッズを身につけた熱狂的なファンからそうでない人まで、老若男女で劇場が埋め尽くされていた。わたしは『ちいかわ』のことをほとんど何も知らない。かわいらしいキャラクターに反して骨太でダークな物語が展開されていることは小耳に挟んでいたものの、設定やあらすじなどは理解していなかった。今回映画が公開されるということで、もっぱら映画館で映画を観るのが好きなわたしはほぼ知識を入れないまま『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観ることになった。
名前ではなく共感が主体をつくる

映画が始まってまず気づいたのが、ちいかわたちがお互いを名前で呼び合わない点だ。日本語を話さないちいかわやうさぎはまだしも、話すことのできるハチワレやラッコも決して互いを名前で呼び合うことはない。本来名前で呼びかけるべき場面でも不自然なほどに名前の発語が避けられており、この作品では名前を呼び合わないのがルールとして設定されているのだろうと冒頭ですぐに推測された。
フランスの哲学者、ルイ・アルチュセールは、人は他者からの呼びかけ(interpellation)に応えることを通じて“主体”になると論じた(※)。呼びかけに応じることによって自己を“主体”として再認(reconnaissance)する。つまり名前やその人が属する属性として呼びかけられることによって人は自己を認識し、社会に組みこまれてゆくのだ。

ちいかわたちの名前の呼びかけが欠落したコミュニケーションは、どこかその会話の一つひとつが宛先を失って浮遊しているようである。ひとこと「ちいかわ」や「うさぎ」と呼びかけがあれば、その話が誰に振られているのかわかりやすいところを、あえて名前を抜け落ちさせている。ちいかわたちのコミュニケーションはアルチュセールの論じた「他者からの呼びかけに応えることを通じて“主体”になる」という自己のありかたにはそぐわない。
しかし彼らは自我をもち、主体性をもって行動しているように見える。名前のない彼らの会話はいかにして“主体”を生みだしているのか。印象的だったのが、“共感”をベースにしたコミュニケーションである。たとえばハチワレは、ぐでりと木に寄りかかったちいかわに対し「疲れちゃうとき、あるよね」と言い、二日酔いになってしまったくりまんじゅうにシーサーは「ついつい楽しくなりすぎちゃう」と共感の言葉をかける。また、ハチワレは古本屋に武器がお揃いであること、カニ=耳がお揃いであることを嬉しげに語る。

彼らは名前を呼びかけることはしないが、わかり合える感情や似ているところを見つけだし、その重なり合いによって他者、そして自己を認識している。名前や属性によってではなく、感情や経験といったより細やかで個別的な要素から共通項を見いだしてゆく。ちいかわたちは“主体”をもっていないわけではなく、人間とはまったく別の“主体”のありかたとコミュニケーションの方法を備えた生きものなのではないか。宛先の抜け落ちたコミュニケーションにはそんなことを考えさせられた。




















