【ネタバレあり】『ドクター・ストレンジMoM』が揺るがしかねないMCUの世界観

『ドクター・ストレンジMoM』の特異な内容

 マーベル・コミックのなかでも、神秘の力で魔術を操る異色のヒーローの活躍を映画化した、『ドクター・ストレンジ』(2016年)。6年の歳月を経て公開された、その続編『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』は、前作を超える衝撃と、作り手の個性が爆発した、驚くべき一作となった。

 以前書いた記事「異色の魔術ヒーロー『ドクター・ストレンジ』、サイケデリックな映像は何を暗示する?」において、前作の特殊性や、幻惑的な世界が何に起因しているのかを考えたように、すでにヒーローものとして、この作品は特異な内容だったといえる。だが、今回はそこにさらに輪をかけて、これまでの「MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)」の世界観を揺るがしかねない内容を含んだものとなった。いったい、それは何だったのか。

ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス

 本作を手がけたのは、マーベル・スタジオ映画は初となる、サム・ライミ監督だ。言うまでもないが、3部作からなるトビー・マグワイア主演の『スパイダーマン』シリーズの大ヒットにより、現在のヒーロー映画ブームへの道筋を作ったのが彼なのである。そんな“レジェンド”の参加が、これまでのマーベル・スタジオ作品の枠を歪ませることになったのだ。

 ライミ監督といえば、呪いの本によって呼び出された死霊が若者たちを襲う『死霊のはらわた』(1981年)や、『死霊のはらわた』シリーズ第3作として、時を超えた死霊との熾烈な戦いを描いた『キャプテン・スーパーマーケット』(1992年)、コミックヒーローのテイストで撮られたオリジナル映画『ダークマン』(1990年)、早撃ちトーナメントでガンマンたちが次々に死んでいく荒唐無稽な西部劇『クイック&デッド』(1995年)、恨みを募らせた老婆が、呪いの力でどこまでも迫りくる『スペル』(2009年)などなど、手がけるジャンルは多岐にわたっている。

 そして本作『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』は、なんとこれらの作品のエッセンスが散りばめられた、まさに「サム・ライミ映画」のセルフパロディのような内容になっていたのだ。

ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス

 ホラーや殺戮描写を担うのは、「スカーレット・ウィッチ」こと、ワンダ・マキシモフ(エリザベス・オルセン)。彼女はアベンジャーズの一員としてヴィラン(悪役)と戦ってきたが、そのなかで愛する存在を失い、ドラマ『ワンダヴィジョン』で描かれたように、その強大な力で現実そのものを都合よく改変しようとしていた。本作では、MCUのシリーズで存在が明らかにされていた「マルチバース(多元宇宙)」のなかから、自分の“あり得たかもしれない”子どもが暮らしている宇宙を見つけ出そうとする。

 そのためにワンダは、ついに一線を越え、多元宇宙への扉を開く能力を持った少女アメリカ・チャベス(ソーチー・ゴメス)をつけ狙い、罪のない人々を殺害し始める。その姿は、かつてのワンダではなく、まさにおそろしい“魔女”のように見える。この演出が、サム・ライミ監督のホラー作品そのものなのだ。少女を守ろうとするドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)は、そんなスカーレット・ウィッチとの熾烈なバトルのなかで、多元宇宙をさまよっていく。

ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス

 MCU作品でこのようなアプローチが可能なのかと思ってしまうが、マーベル・コミックには、これに類する展開が描かれた作品があるため、このストーリーそのものがサム・ライミのために用意されたというよりは、彼に向いている題材だとスタジオが判断したということだろう。

 これまでのMCU作品は、監督の個性を大事にしていると度々スタジオ側からアナウンスされている。しかし、製作を統括するケヴィン・ファイギの強いコントロール下にあることも事実で、ワーナーのDCコミックス映画と比較すると、監督の“作家性”については部分的に抑えられていたところがあると感じられる。これが、MCU作品の“強み”でもあり“弱み”でもあったのだ。しかし本作は、そんな固定観念を吹き飛ばすように、サム・ライミ監督の独壇場と化したものとなっていて、その意味で満足感を得られることは間違いない。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる