『名もなき歌』は恐ろしく忌むべき事実を突きつける 1988年のペルーに感じる同時代性

ペルー映画『名もなき歌』の同時代性を読む

 乳幼児の誘拐というメインテーマは、“誘拐”という行為が従来もたらしてきたような、ありふれたミステリー要素とは異なる方向性を物語に与えていく。それは例えばクリント・イーストウッドの『チェンジリング』のような悲劇であったり、成島出の『八日目の蝉』のような人間の情感に訴えかけるドラマであったり、はたまたピーター・チャンの『最愛の子』のように貧困や格差社会に代表される現代社会の闇を暴き出していったり。

 ペルー出身のメリーナ・レオンの長編デビュー作となった『名もなき歌』もまたその流れに組み込まれる作品だ。政治的かつ経済的な混乱が渦巻く1980年代後半のペルーを舞台に、組織的な乳児売買によって生まれたばかりの我が子を奪われてしまう先住民の夫婦と、真実を暴くために手を差し伸べる同性愛者の記者を中心としたこの物語は、彼らが置かれた閉塞的な環境を示すために当時のブラウン管のテレビジョンをイメージしたというエッジがぼやけた4:3の白黒画面の中で運ばれていく。

 古ぼけたフォーマットの中に映し出されるというのに、画面自体は終始乱れのないクリアさを保ち続ける。このアンバランスさによって、これが一体いつの時代を投影したものかという、鑑賞者と物語との間に存在する時間の隔たりを曖昧にしていく。しかもこれが1988年の物語であると理解した上で観ていても、極めてパーソナルな視点を取り囲むようにして、民族差別や貧困と格差、腐敗した政治とテロリズム。そして同性愛者へ向けられた嫌悪など、現代とまるで変わりない世界が広がっているではないか。時代を経ても人間が作り出す世界はそう簡単には変わらない。その恐ろしくも忌むべき事実を突きつけ、そこにもうひとつの悲劇を構築するのである。

 メガホンを取ったメリーナ・レオンの父親であるイスマエル・レオンという人物は、まさにこの映画で描かれた人身売買事件をスクープした記者であった。つまりこの映画は、メリーナがまだ幼い頃に父がペルー国内に向けて発信した事柄を、30年以上経て娘が世界に再発信したものというわけだ。実際には1980年代前半の事件であるが、物語はあえて1988年を舞台に据える。1980年に軍事政権から民政移管が為されたペルーでは、1985年にアラン・ガルシア大統領が就任し、財政支出を続けたことによって数年後にハイパーインフレーションが引き起こされる。1988年はその“前夜”に当たる年であり、同時に国内で過激派によるテロ活動が活発化した、最も影を帯びた時代だったのだ。

メリーナ・レオン監督

 この「1988年」というのは、メリーナ・レオンという作家にとって極めて重要な年号であることは間違いないだろう。彼女が2009年に手掛けた短編『リリの楽園』もまた1988年を舞台にし、(おそらくメリーナ自身を投影しているのであろう)豊かな想像力を持つひとりの少女を主人公にした物語であった。不穏な時代のなかで少女は共産主義の思想に傾倒していきながら、やがて兄(本作のペドロ役であるトミー・バラッガが演じている)がMRTA(トゥバク・アマル革命運動。1996年の在ペルー日本大使公邸占拠事件を起こした組織である)に参加するために家を出て行ってしまったことで孤独を募らせていく。

 その劇中では少女が現実から逃避するようにして遊ぶ人形劇のシーンだけがカラーで描写され、それ以外がモノクロで映し出される。これについてメリーナ自身は「当時の暴力的な日々の記憶と一致する」と述べており、いかに当時のペルー国内の情勢が当時10歳だった作り手にトラウマのような根深いものを与えていたかがわかる。そして今回の『名もなき歌』もまたモノクロで描かれた作品であり、インタビューの中でメリーナはその理由として「当時の新聞で見た写真の記憶」と語っているわけだが、そこには限りなく、自分自身が見て育った当時のあまりに暗い現実と一定の距離感を取ろうとしているようにも思えてならない。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる