宮台真司×荘子it『崩壊を加速させよ』対談 「社会という荒野を仲間と生きる」
「最終解決は存在しない」
荘子it:僕はそれこそ蓮實的な、究極的には「趣味判断」でどっちの反復がいい、みたいなことをやっても、もう仕方がないと思っていて。もちろん批評的「選別」が単なる「選り好み」ではないのはよく分かってるつもりだけれど、それは映画館で徹底的に映画を観た世代までしか通用しないと思うんです。蓮實の動体視力とか記憶力というのは、DVDのスローモーション再生とか自宅で何回も観るとかの視聴条件はおろか、ニコニコ動画とかYouTube、SNSのネット文化を経た有象無象の考察厨とかの前に立ったら――もちろん芸にまで高められてるから話術としては面白いかもしれないけれど――正直、相対的に説得力は低くなってしまう。
そうなったときに、蓮實というのは本当に一時期の輝きだったというか。一時期の映画が固有に持っていた、映画館の場所性なども含めたメタレベルの一回性のようなものが、そこには密輸されていたのだと思う。おそらく、それでぎりぎり成り立っていた20世紀型の批評であり、今は絶対できない。
僕の結論を言ってしまうと、映画を徹底的に観ることで、映画を観なくてよくなるようにするというのが、たぶん今の映画批評の目的かなという気がして。宮台さんの実存批評も、正直、題材はなんでもいけますよね。
宮台:そうです。だから、別に映画が好きなわけでもない、とよく言っています。
荘子it:でも、めちゃめちゃ好きだと思いますよ(笑)。そして、映画が好きであればあるほど、普通は映画を擁護したいから蓮實派になってしまうと思うんですが、しかし宮台さんはそれを振り切って、「映画なんて表層にこだわるな」という次元にジャンプしている。そこにすごく共感するんです。自分も黒沢清を観て覚醒した気になるのではなく、「黒沢清だってめちゃめちゃ軽いんだ、実際にこの世の中がクソ軽いんだから、それをどうにかしなければいけない」という話になったらいいと思っていて。だから、映画批評を書くモチベーションは、僕の中では相当低い。シネフィル的なエピゴーネンももうやりたくないから、音楽にそれを活かそうとシフトしました。
ぜひ『崩壊を加速させよ』というタイトルにも触れたいです。宮台さんのインタビューを読むと、加速主義の本元の思想自体に対する評価はしていないですよね。にも関わらず、宮台流の加速主義を標榜している。宮台さんの師でもある小室直樹さんの「社会が終わっているほどに人が輝く」というフレーズや、俗流ハイデガー的に言えば、「本来性を失った頽落存在たちがその自明性がはく奪されることで本来性に気付く」といった意味での加速主義は、一理ある。でも、やっぱりそれが本当に唯一の処方箋なのかというのは考えてしまうところですし、宮台さんもどこまで本気で言っているのかなと。
『崩壊を加速させよ』という言葉をそのまま受け止めると、「〈社会〉から〈世界〉へ」開かれよってということだと思うんですけど、それこそ一番最初の『絶望・断念・福音・映画―「社会」から「世界」への架け橋』(2004年)の頃から一貫して、最終的には、「社会から世界に開かれているにも関わらず、なんでこんなクソ社会みたいなものがあるのか」という、その奇跡性を擁護するというところ(「内在的超越」)に、宮台さんの批評はいくはずで。
『世界はそもそもデタラメである』(2008年)のワーグナーとニーチェの対比においても、ニーチェは山籠もり気質で、最初はワーグナーと共鳴していたけれど、「あいつ俗物すぎて嫌い」みたいな感じでいじけてしまって、鬱になっていく。ワーグナーはどんどん活躍していくけれど、どんどん俗物になって……みたいな。そのどちらが真実を突いてるのか。そもそも社会はデタラメなんだから、社会で勝った振る舞いしようが、それは本質となんら関係ないという話じゃないですか。単にニーチェはナイーブすぎて、ワーグナーはタフなんだ、という話で。
宮台:僕の出身の麻布は、長く中学高校紛争が続いたのもあって、出発点では僕のような「世界はそもそもデタラメである」みたいな認識を持つやつが同世代には多かったけど、その後「だから好き勝手やらしてもらうぜ」という具合に、社会からの批判も分かりつつ、経産省や資源エネルギー庁に入って原発スロットルを全開で踏むヤツもいた。ニーチェとワグナーの対立におけるワグナー化です(笑)。その意味で荘子itさんの質問は鋭いと思う。
諌山創くんの『進撃の巨人』が、その問題を描いています。この作品の特徴は、話の構造が「連載版ナウシカ」と同じなのに、主人公が、ナウシカによく似た「世界に開かれた」アルミン・アルベルトではなく、エレン・イェーガーという「世界には開かれていないが、社会の不正義にすごく敏感で、戦略に長けたキャクラター」だという点にあります。それが幾つかのことを示唆します。
このエレンの設定はマックス・ウェーバーが言う「政治家」と全く同じです。仲間を背負って命懸けで戦うけど、仲間というのは人類みんなではなく、いつも境界線が引かれている。それがウェーバーの政治家で、そういう政治家がいないと社会は存続できませんが、だからこそ問題が孕まれます。第一は「仲間以外はどうなるんだよ」。第二は「仲間を守ったとして社会は続くのか」。
第一の問題は「ローカルが仲間」とするエレンと「人類全体が仲間」とする異母兄ジークとの対立として現れます。エレンはパラディ島民を助けるために島外民の全滅を企図し、ジークは人類を子々孫々まで救うためにパラディ島を含む巨人化可能なエルディア人の全滅を企図します。政治哲学ではエレンはコミュニタリアン、ジークはコスモポリタンだけど、この作品は同型的だと断言します。
第二の問題は、エレンの仲間はパラディ島民だけど、パラディ島民は島外民と同じでクズの集まりなので、島外民を滅ぼして島民を守ったにせよ、壁に囲われて外がないと思われていた時代のパラディ島と同じ状態に戻るだけ。仲間を守ることに成功しても、実は何にも成功していない。日本人が総体としてクズであれば、日本人を守ったところで、地獄が永続する、というのと同じです。
ポイントはエレンがそれを知ってることです。原罪的な必謬性を弁え、自分が最後に殺されるべき可能性を意識しながら生きます。最後に三島由紀夫を介錯した森田必勝のようにミカサが首を切り落とす。何も分かっていないミカサはエレンが望むから首を切る。三島が隊長を務めた「楯の会」の連中と似ます。あなたの言うことはよく分からないが、あなたが首を切れと言うから切りますと。
荘子it:「泣いて馬謖を斬る」どころの悲劇ではないですね。「三島に言われて泣く泣く三島を切る」という不条理。
宮台:そこも現実を反復しているという意味で「型」の反復です。作品内の数多の反復の中で最も大事なのが「最終解決の必謬性」です。その意味で「連載版ナウシカ」の反復ですが、ナウシカより劇的なのは、世直しの権化エレンが、自分が間違う可能性を当初から確信していること。対照的にナウシカはぎりぎり最後になって最終解決の必謬性に気付く。いずれにせよ最終解決は必ず間違うので存在しないのです。