荘子itによる批評連載スタート 第1回:『Mank/マンク』から“名が持つ力“を考える

荘子itの『Mank/マンク』評

0.荘子itは電気蝶の夢から覚めるがーーー 令和/映画の起床/批評

 判で押したような「覚醒せよ」に、どれだけの意味があるのか。令和の時代にラッパー/トラックメイカーとして表現をし、そして今ここで映画の批評を始めようとしている荘子itにとって、それが問題である。

 よしんば今こそ覚醒が必要であるとしても、それを直接的に言ってみせることを、徹底的に疑い抜く表現者や批評家が、もっといてもよいのではないか。荘子itはラッパーとして、耳に心地よいだけのアフォリズムやパンチラインやハッシュタグの怠惰さに敏感であるよう努めてきた。

 現在、芸術や文化が立たされている危機とは、人々がそれを求めないことにあるのではなく、むしろ、誰もがそれを渇望していて、しかも、常にすぐそこにあるにも関わらず、その本当の姿を直視し、心から信じることはできないまま、「でもこれがそれだよね?」、と目配せし合いながら、担ぎ上げ温存していることにあるのではないか。温存も行き過ぎれば、さしずめ聖火リレーのように虚しい熱狂を生む。

 そのような状況に、冷や水ではなく、coolならぬfoolな風を吹かせるために、この連載は書かれることとなる。「令月にして、気淑く風和ぎ」の令和の風紀を乱すために。儀式の火にくべる以上の異常な空気を送り込む。

 芸術体験とは、主体が揺さぶられ、それ以前と以後では、世界が一変して見えるような体験であるに違いない。問題はその後だ。様々な形で美や崇高さに触れ覚醒した者も、翌朝には、それでも変わらないこの世界に改めて深く絶望し、どんなに素晴らしい表現や作品がこの世にあろうと、全ては無意味であると悟る。また同じ絶望を味わうくらいならこのまま目を覚ましたくないと思いながら眠りにつく。そしてまた目が覚める。真の「覚醒」などない、毎日ただ繰り返される「起床」に、なんの意味があるのだろうか。

荘子it

 荘子itの由来である荘子に倣えば、無意味はあるがままの様相として肯定される。しかし、本当の意味で無意味に耐えられるほど人は強くないのではないか。もし耐えられるように思えるなら、それは本当の意味で無意味と向き合うことを回避しているのではないか。荘子itが荘子にitをつけて、so嫉妬、so糞などのネガティブな意味を付与したのはそのような意識からだ。荘子のようになりたいし荘子はクソだ。荘子の胡蝶の夢も説話としては明晰だが、だからこそ無色透明すぎて、フロイトがes=itで名指したような余剰がない。

 荘子itの夢はもっと不気味なものだ。それを直視することだけが唯一の誠実さだと信じる荘子itは、道家的達観を離れ、自らの凡庸さ、無知、醜態を晒しながら、わずかばかりの、だが確かにある意味を探求してみせ、真に良心的な道化たらんとするだろう。深淵な道教から愚直なストリートの思想(=路教)へ踏み出す余剰の一歩がitだ。令和の元号が『万葉集』からの引用であっても、元を辿れば中国オリジンであるように、荘子itは荘子から生まれたが、派生物はオリジナルに全て還元可能なわけではなく、むしろ余剰はそれ自体が独立した意味を持つばかりか、あまつさえ逆流して根源を侵食する。ジャック・デリダはそれを「代補」と呼んだ。

 もはや大いなる「覚醒」はないにも関わらず、毎日のように「起床」することだけは変わらない。そんな状況での批評とはどのようなものか。無意味と戯れながら、ソムリエ的に鑑賞眼や哲学や美学を磨いていくことではない。そのような態度に荘子itは一切興味を惹かれていない。夢の中の胡蝶の羽ばたきが風を吹かせたバタフライエフェクトの結果として、現実に竜巻を起こし、夢を見ていた荘子itの布団を吹っ飛ばすような、虚構の果てでそれが自壊する運動を詳細に捉え、その意味を探究すること。それが本連載のテーマである。

1.『市民ケーン』から『Mank』への追想

 『Mank/マンク』(以下、『Mank』)は、映画監督のデヴィッド・フィンチャーとその父ジャック・フィンチャーの親子が、「史上最高の映画」と名高い『市民ケーン』の脚本を書いた、映画史的には目立たぬ存在であるハーマン・マンキーウィッツ(=マンク)を題材に、ポーリン・ケール著『スキャンダルの祝祭』を下敷きに構想した作品だ。無名のまま亡くなった父ジャックが遺した脚本は、息子デヴィッドが映画監督として大成功しながらも、ヒットの見込みが薄い企画故に長年温め続けられ、ついにNetflix製作の後ろ盾を得たことで念願叶って映画化された。父の影響で映画を観始めた息子による、起源は極私的にして遠大な射程を持った本作を当連載第1回の批評対象としたい。

 『市民ケーン』に冠される、「史上最高の映画」という誇大なコピー(英『Sight&Sound』誌で10年に一度批評家が選ぶランキングで50年連続1位、米映画協会の「アメリカ映画ベスト100」や仏『カイエ・デュ・シネマ』の「映画史上ベスト100」で1位などの実績がある)がいつから独り歩きし始めたのかわからないが、日本大学芸術学部映画学科監督コース出身の荘子itが学生時代、授業で『市民ケーン』を観させられた際にも教授から、「この作品は 、“史上最高の映画ランキング”の1位です」という不条理コントじみた前置きがなされた。今ならジャルジャルあたりがやりそうなネタだが、かつて、ダウンタウンの「お見舞い 世界1位」という、大病を患い死を目前に控えた子供役の浜田雅功を励ますために、「世界1位の男」役である松本人志がお見舞いにきて、「ぼくが世界1位だよ」と只管告げるだけのコントや、鈴木清順監督の『殺しの烙印』という、殺し屋の男が「殺し屋ランキング1位」を目指して、殺し屋ランカー同士でひたすら無為な戦いを繰り広げるだけの映画などで、それらの常軌を逸した不毛さに対するフェティシズムに目覚めていた荘子itは、大いに興奮した。

 1941年の映画である『市民ケーン』を観た現代の学生の多くが、率直に退屈だと感じたり、一体どこが「1位」なのかと文句を言う気持ちもよく理解できる一方、荘子itは『市民ケーン』、ひいては、監督兼主演兼プロデューサーであるオーソン・ウェルズに魅了された。ウェルズのふてぶてしく不遜な「甘やかされた子どものような顔」(ポーリン・ケール)は、底の抜けた「1位」性を体現するに相応しい相貌だったからだ。むろんこのようなフェチは、全てのフェチがそうであるように倒錯していて、階級やランキングというものの根拠に実感が湧かない現代日本っ子が、その恣意的で権威主義的で、ナンセンスの織物のように見える世界の自動性をむしろ徹底する振る舞いによって冷笑(そしてその無根拠ゆえに際限なく哄笑)する態度だ。ポスト・モダン的主体の無根拠さへの痙攣的防衛反応であったのかもしれない。そのようなフェチは今では一抹の寂しさとともにだいぶ癒えてしまったが、若き荘子itの趣味趣向を著しく方向付けたことは間違いない。

 最初はそのような不純な出会いだったが、映画とは不思議なもので、その後もオーソン・ウェルズの作品を色々観ているうちに本当に好きになってしまったし、多くのことを学んだ。映画は「夢」の隠喩で語られるが、必ずその余剰として「現実」の残滓を嫌でも鑑賞者に浴びせかける。それが冷や水となって、見世物小屋の観客は叩き起こされ、時には革命的な思想に「覚醒」してしまうことさえある。しかし、何度も「覚醒」を経験するうちに、それはルーティーン化し、観るだけでは満足できなくなり、次第に人は映画について語り出す。日々、「起床」するようにして、作品を見ては友人と語り合い、あまつさえTwitterやFilmarksで不特定多数のフォロワーに向けて自らのレビューを開陳する。より良い「起床」は「覚醒」に似ていて、その実それがまだ夢の中の出来事であっても、同じ夢の中でそれを眺める人々にとっては啓示として受け取られることすらあり得る。

 映画学科を中退してラッパーになって数年、今になって『市民ケーン』を題材にした新作映画『Mank』が公開された。荘子itは、インストール済みのわずかばかりの映画史への知識を駆使するのみならず、様々な過去作の観直しや読書や検索を経て、本作の含意を汲み取る過程を大いに愉しんだが、むろんそのために必要とした情報を単に読者へ伝達することが目的ではない。本稿は、夢の正しい見方を提示するものではなく、いかにしてその外部に至ったかについて検討するものだ。夢の中で蝶になってひらひらと愉しみながら、その羽ばたきが瞬きとなって微睡みを晴らすような運動に寄り添うことが批評だ。だが、今現在夢の中にいるものが、どうして自ら目覚めようと/自らを目覚めさせようと思うのか。「覚醒」した気になって、『エヴァンゲリオン』の旧劇場版でもあるまいし、他者がいない世界で他者が必要だとひとりごちてみせてもしょうがない。「起床」は、ひらひらと舞ううちに、単なるエラーとして、たまたま訪れるしかない。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる