『Mank/マンク』は懐古主義の作品ではない デヴィッド・フィンチャーが“いま”製作した意義
マンクに『市民ケーン』の脚本を書かせた「やむにやまれぬ感情」の根底には、1934年に行われたカリフォルニア州知事選が強い影を落としていると、フィンチャーは見ている。ちなみにそのフィンチャーとはデヴィッドにあらず、本作の脚本を書いた監督の実父ジャック・フィンチャー(2003年没)のことである。
このとき「カリフォルニアで貧困を終わらせる(End Poverty in California=EPIC)」というスローガンを打ち出し、民主党から立候補したのは、社会主義作家であるアプトン・シンクレア。のちに映画『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)の原作となった小説『石油!』の著者でもある。だが、ハーストらの共和党寄りメディアは、シンクレアの政策を痛烈に批判(社会主義と共産主義を意図的に混同させるような言説は、戦後ハリウッドに吹き荒れた「赤狩り」の下地でもあるだろう)。さらに大手映画会社MGMのルイス・B・メイヤー社長らと結託し、巧妙に民主党政策への忌避感を植えつけるヤラセのニュース映画を作らせた。結果、シンクレアは落選。メディアによる大衆への印象操作が抜群に功を奏したことは、マンクにも忘れがたい痛恨を残す。
言うまでもなく、この出来事は今年(2020年)に行われたアメリカ大統領選と大いに重なる。現職大統領であり共和党候補のドナルド・トランプは、右派メディア(特にFOXニュース)の強大な影響力を味方につけ、さらにSNSも駆使してフェイクニュースを流布し、国民の狂信的愛国心と排他的敵対心をセットで煽ることで絶大な支持を得てきた。この選挙によってアメリカの国民感情は南北戦争時さながらに分断されたが、この「分断を煽るメディア重視の選挙戦」の原型を形作ったのが、まさに1934年のカリフォルニア知事選だったという言説もある。
映画『Mank/マンク』を観ながら、成金上がりのメディア王ハーストにトランプの姿を重ねてしまうのは、ごく自然なことだ。ハーストの若く美しい愛人マリオンの存在も、トランプの歴代トロフィーワイフたちの姿を思い出させる。ただし、マンクは自分を気に入ってくれた(たとえパーティーを盛り上げるための道化役として、であっても)ハーストに対しては敬意を抱いており、その愛憎半ばする思いから『市民ケーン』という畢生の大作を産み出すことになる。相手が俗物王トランプだったら、ちょっと難しかったかもしれない。
本作のシナリオは1990年代に書かれ、すでに『セブン』(1995年)のあとに映画化企画が動いていたこともあったという。だから、この作品が当初から2020年の大統領選に当て込んで構想されたという事実はない。これまた「予言の書」だったということか?……というよりは、メディアの政治的悪用など「今に始まったことではない」ということだろう。似たような状況は歴史上何度も繰り返されており、父ジャックはいつの世にも通じる警鐘をそのシナリオに盛り込んだ。そして、今回たまたまトランプvsバイデンという絶好のタイミングが重なり、奇跡のようなドライヴがかかって映画化が実現した……というのが実際のところではないだろうか。
ひょっとすると、デヴィッド・フィンチャーにとってはトランプの2度目の勝利こそが「望ましい展開」だったかもしれない。もしそうなれば、1934年の選挙でマンクが味わった苦渋は凄まじい痛みとともに共有されたはずだし、それでもマンクが彼なりの戦い方で反骨精神を貫く物語は、暗い時代に差し込む一筋の希望としていっそう力強く輝いたはずだ。幸いなことにそうはならなかったが、筋金入りの皮肉屋にして、デビュー時から一貫して悲劇の信奉者であるフィンチャーの思惑を推し測ると、ちょっとうすら寒い気持ちにもなる。