『もう終わりにしよう。』に絶えず寄り添う“死のにおい” リンチ映画にも通じる不気味さを探る
このようないくつもの出来事や、車内における、文学や映画などの名前を挙げていく二人の会話は、おぼろげながら“何か”を表しているように感じられる。そして、さらに奇妙なのは、本筋と関係あるようには思えない学校の映像と、そこで働いている人物の様子が、断続的に映し出されるという点である。これは一体何なのか?
じつは原作小説も、物語とは一見関係なさそうな謎の描写が文中に何度か配置されるという、映画に近い構成となっている。そして映画がはっきりとした答えを提示しないのも、この小説のスタイルを踏襲しているといえよう。とはいえ原作を読めば、数々のシーンが何を表していたのかが、おそらく映画版より読み取りやすくなるはずである。
ヒントになっているのは、彼女が望まないことが次々に起こるという部分である。そして、ときに彼女の性格すら“何か”によって都合よく作り変えられてしまう。それは、彼女にとって恐怖であり苦痛でもある。
本作の謎というのは、劇中で描かれてきた世界の正体が誰によって生み出されているのかということだ。それは、分かってしまえば一気に納得できるものとなっている。だが問題は、なぜそれを描く必要があったのかという点だ。
この作品世界は、劇中のある人物によってイメージされたものだ。その人物は、自らの孤独を、自分にとって都合の良い妄想によって埋めようとしていた。しかし、その世界には自分の“どうにもならない”現実が紛れ込んでくるときがあるのだ。
妄想の中身というのは、もちろん個々人によって変化するものだ。その世界のなかでは、自分のコンプレックスを糊塗することができる。自分を理想化させたり、ありのままの自分を周囲が受け入れられるようにしたり、または自分の存在を消すこともできる。それでうまくいかなければ、途中から設定を都合よく変化させることもできる。だから妄想の世界は不自然でつじつまが合わず、そして現実への復讐の性質を帯びたものになる。そして、本作はこの世界を映し出すことで、そこで描かれるもの、あえて描かれないものを通し、一人の人物の絶望と孤独、そして独善的な感情を表現する。
それは、これまでチャーリー・カウフマンが作り出してきた“脳内世界”そのものではないのか。彼の作り出す世界は、彼自身の内面をナルシスティックなまでに追求するような文学的なものだった。そして、それを支持する観客は、そこに自分の気持ちや気分を同調させることで、ある種の陶酔感を味わっていたように思える。
しかし本作は、そんな世界に棲んでいる女性の視点を観客に共有させ、不快感を示すことによって、そこに厳しい客観性を発生させている。この“自分”という堂々巡りの世界に対する批評性というのは、もちろん原作自身が持っていたテーマでもあるが、ここではそれをチャーリー・カウフマンがリライトし、さらに自身で監督したことに大きな意味があるのではないだろうか。