ルル・ワン監督が『フェアウェル』で描いた“文化間の軋轢” 印象的なラストシーンの意味とは?

『フェアウェル』ラストシーンが意味するもの

 全米4館のみという小規模公開から、口コミによって動員を増やし、全米トップ10にランクインするというスマッシュヒットを成し遂げた『フェアウェル』。日本ではコロナ禍の影響によって長く公開が延期されていたが、ついに2020年10月から公開された。

 描かれるのは、中国系アメリカ人と、中国人の間の文化的な軋轢だ。『オーシャンズ8』(2018年)、『クレイジー・リッチ!』(2018年)や『ジュマンジ/ネクスト・レベル』(2019年)での演技で、いまやハリウッドスターと呼べる地位を獲得したオークワフィナだが、本作撮影時の知名度は低かったという。そして、アメリカで育った中国系アメリカ人の主人公ビリーを、彼女のエキセントリックなイメージとは異なり、文化の違いによる葛藤に悩まされる複雑な役どころを落ち着いた芝居で演じている。

 ここでは、そんな本作『フェアウェル』の画期的な部分や、テーマの特殊性、そして人気を得た部分を含め、できる限り深く掘り下げて、内容を考察していきたい。

 希望の進路を目指しながらも足踏みを続けるビリー。彼女は、両親と同じくニューヨークで生活を送っていた。そこに衝撃的な報告が飛び込んでくる。中国の長春に住んでいる祖母で、一族をまとめる中心的な存在でもあるナイナイが、末期ガンで余命3ヶ月と診断されたというのだ。両親や中国の親戚たち、そしてナイナイが大好きなビリーも皆、ナイナイに会いたがる。しかしナイナイ自身は、ショックを受けないよう医師に余命宣告を受けたことを知らされていないのだという。つまり、親戚中でナイナイだけが自分の病状を知らないのだ。

 この状況のなかで親戚一同は一計を講じ、ダミーの新婦を用意した偽の結婚式を長春で開くことにする。親戚たちは、そこにやってきたナイナイに、心の中でお別れ(Farewell)を告げるという策略だ。ビリーもまたナイナイに会うために結婚式に出席することにするが、ビリーの両親が懸念するのは、感情の浮き沈みが激しいビリーの態度が、この計画を台無しにしてしまうかもしれないということ。果たしてナイナイに気づかれないまま、偽の結婚式はフィナーレを迎えることができるのだろうか。本作は、『スティング』(1973年)やドラマ『スパイ大作戦』(1966年~1973年)のような要素も見せながら、一連のドタバタをユーモラスに描いていく。

 同時に描かれるのは、この事態に対するビリーの素朴な疑問だ。余命が少ないという宣告を、本人だけが知り得ないということについて、不思議に感じるのである。もちろん、寿命にかかわることを聞いて本人がショックを受けることで、いろいろな問題が生まれるということくらいは、ビリーにも理解できている。だが、人間は“知る権利”を持っている。自分の生死にかかわる重要な情報を自身が知ることができないというのは、個人の人権を無視しているのではないか。余命を知ったうえで、ナイナイ自身に自分の生き方の選択肢を提示することが、本当にナイナイのためになることではないのか……? このように、個人主義を尊重するアメリカ人らしい疑問が、アメリカで育ったビリーの心をもやもやさせるのだ。

 そんな想いを抱えながら式に出席するビリーと、中国に住む親戚たちが、言葉を交わすことで、両者が包まれている文化の違いが際立ってくる。中国はアメリカに比べて、個人の意志と集団の意志との境界が曖昧で、個人の権利が尊重されづらい社会なのである。だから、身内が勝手に告知しないという判断をすることが、悪気なく行われることがあり得る。日本においても、病状を告知しないケースが珍しくないように、ここでの中国の人権意識は日本社会にも重なる部分が多いといえよう。

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