Netflix『もう終わりにしよう。』が本当に終わらせたかったこと 話題を呼んだ謎の数々を読み解く

『もう終わりにしよう。』の謎を読み解く

 もう終わりにしよう。

 例えば夜更かし、次の日に二日酔いになるような深酒、食事制限のみの万年ダイエッター、うまくいかないとわかっている惰性の関係。私たちは常に何か新しいことを始めたいと考えたとき、悪しき習慣や状況を終わらせようとする。その終わらせ方は人それぞれだ。何か始めることもなく、ただ終わらせたい時だってある。問題は何を、どのように終わらせるかだ。

 恋人に別れを切り出す方法を一つとっても、何通りあって、どれが正解なのかわからない。もうこれ以上関係が発展しない、彼を愛していない。そんな自分の気持ちに薄々気付きながら彼の実家に向かい、両親とディナーをともにすることも選択肢の一つだ。私は正直ごめんだね。いや、こんなの誰もが嫌だろう。しかし、ノーと断れない主人公ルーシーは道中に自分の気持ちや彼氏のジェイクを洞察しながら思考を整理する。延々と紡がれる彼女の言葉と『マルコヴィッチの穴』で知られる鬼才チャーリー・カウフマンによる映像表現で描かれた作品が、Netflixオリジナル『もう終わりにしよう。』だ。

 本作は一見難解そうで実はとてもシンプルな作品だ。そして、物語の解釈は観た人それぞれで違うし、全てが正解だと原作者イアン・リードは語る。大学生がカルトによるフェスティバルに参加して悲惨な死を遂げていくホラー『ミッドサマー』が、実は最初から最後までカップルの別れのプロセスを描いた作品だということはもう周知のことだが、『もう終わりにしよう。』はこれに非常に似た雰囲気がある。しかしこの映画は、ルーシーがジェイクとの関係を終わりにしようとした物語に見えて、実は全く違うものを終わらせる物語だったのだ。では、何を“誰が”終わらせる話なのか。映画を一度観ただけでは咀嚼しきれないであろう本作の仕組みを一つの視点を持って書きたいと思う。

※ここから先は『もう終わりにしよう。』の結末に関わるネタバレを含みます。

ルーシーはジェイクである

 映画を観て、原作本を読んで、もう一度映画を観ると、カウフマンの仕掛けや様々な場面に散りばめられた、説明ができそうでできない違和感を吹っ切ることができる。なぜ、ルーシーが作ったはずの「骨の家」の詩がジェイクの子供部屋にあったのか、なぜ幼少期の彼女の写真が実家に飾られていて、それがジェイクの写真とされていたのか。なぜ彼女の描いた絵が地下室にあり、絵のサインはジェイクのものだったのか。

 答えは簡潔で、ルーシーとはジェイクなのだ。つまり、ルーシーとはジェイクの想像したキャラクターで実在しない。いや、厳密に言うとジェイクがバーで出会って、“本当は番号を交換したかった”女の子である。二人は一人。その視点で作品を観直すと数々の違和感が一気に解決する。まさに『ファイト・クラブ』だ! そして彼の両親も、彼の想像の産物。はっきり言うと、この映画の大部分が学校で清掃業務をする年老いたジェイクの空想なのだ。

 この映画は孤独な男ジェイクが「もう終わりにしよう」と考えながら、過去に出会った女性と“もし付き合っていたら……”と妄想して半生を振り返る物語である。そして彼が本当に終わりにしようと思っていたことは勿論、恋人との関係性ではない。

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