『もう終わりにしよう。』に絶えず寄り添う“死のにおい” リンチ映画にも通じる不気味さを探る

『もう終わりにしよう。』に絶えず寄り添う“死のにおい” リンチ映画にも通じる不気味さを探る

 本作の最後、エンドクレジットとともに映し出されるのは、吹雪の夜が明けた朝の学校のさわやかな空であり、そこには“現実”を示す環境音が流入してくる。観客はこの景色に、ある種の健全さと辛さが混じった複雑な思いを抱くことになるだろう。

 こういうかたちに作品が着地したというのは、一つには“時代”が影響しているのではないかと考えられる。1990年代から2000年にかけて、アメリカではインディーズ映画が隆盛し、日本でもミニシアターブームが起こった。その頃に多くの作品が語っていたのは、“自分とは何か”という疑問だった。それは、先鋭化された大量消費社会のなかで画一化された価値観やシステムが支配する環境を、個人としてどう生きるのかという、世代的な共通の問題があったからだ。

 しかしその後から現在にかけて、経済格差問題が深刻化し、世界的に排他的な思想が蔓延するという事態を迎えたことで、多くの個人の画一的な生活や安全すら保証されない局面を迎えることになった。そこでは、個人の自意識の問題よりも、“過酷な現実を生き延びること”、“かつての人並みの生活を手に入れること”が優先される、余裕のない世界が到来したのである。

 “妄想の世界”は、ここにおいて自分へのナルシシズムな感情や実存性の追求というよりは、現実からのひたすらな逃亡の意味でしかなくなってきているのではないか。そして、そんな環境では内面の世界をもうまく形成することができないのではないのか。そこで脳裏に浮かぶのは、“もう終わりにしよう。”という言葉である。

 本作『もう終わりにしよう。』は、不完全な内面世界を描くことで、立ち塞がる現実を間接的に表現することに成功した。それは、まさに現代に横たわる切実なテーマを、チャーリー・カウフマンのやり方でとらえた結果だといえるだろう。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■配信情報
『もう終わりにしよう。』
Netflixにて独占配信中
Mary Cybulski/NETFLIX (c)2020

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