“画面の変化”から映画を論じる渡邉大輔の連載スタート 第1回はZoom映画と「切り返し」を考える

Zoom映画と「切り返し」の問題

『Zoom東京物語』が示した「画面」の映画史

 じつは、こうした昨今のZoom画面の特異さと映画の画面との関係を、図らずも(?)批評的に捉え返してみせた動画がある。映像作家、脚本家で、リモート演劇も手掛けている森翔太が4月28日にTwitterで公開し、現在までに87万回以上再生されているショート動画『Zoom東京物語』である。

Zoom東京物語 Tokyo Story

 この動画は、そのタイトル通り、小津安二郎監督の古典的名作『東京物語』(1953年)のフッテージを利用した巧みなパロディ作品で、この映画の笠智衆、東山千栄子、原節子、香川京子などの登場人物の切り返しショットを抜き出し、それらをZoom風の画面に当て嵌めたものである。すなわち、笠や原の会話シーンが、デスクトップのZoom画面上に分割されて映し出され、その中では森自身もZoom画面に登場し、彼らと会話を試みようとしたり、チャットで話しかけてみたりしようとする。

 この1分あまりのささやかな動画に森が込めた企みとは、小津が、いわゆる「正面からのバストショット」や「交わらない視線」という通常の古典的映画の規範から逸脱した特異な切り返しショットを駆使したことで有名な映画作家であり、その演出が(アフターコロナの)今日の視点から振り返ったとき、Zoomの画面とじつによく似ているという点にあるだろう。映画史において小津の切り返しショットは、20世紀に体系化された一般的な切り返しをラディカルに揺るがす特異なものだった。森の『Zoom東京物語』は、それをアフターコロナの21世紀的な「インターフェイス/タッチパネル的画面」とシニカルに接合してみせることによって、その両者が担っている歴史的意味を異化しつつマーキングしたのだ。

デジタルデバイス、コロナウイルスの隠喩としての「怪獣」

 以上のように、Zoom映画としての岩井の『8日で死んだ怪獣の12日の物語』の画面が示しているのは、通常の映画的な「画面」=スクリーンとは異なる、新しいタイプの「画面」である。

 そして、その「画面」は、スマートフォンの自撮りのように、あるいはまさにズーノーシスとしての新型コロナウイルスのように(!)、ヒト=主体と画面=客体が何の距離や媒介物もなくくっつき合い、ひとつの「見える(映る)もの」として一体となって相互交渉し合う場を組織している。かつての「切り返し」ショットの画面では、切り返されるふたつの映像(ショット)は、はっきりと対立関係にある。しかし、Zoomの会話映像の分割画面は対立がない。そしてその場の渦中で、本来はイメージを観る主体=観客の側も、反対にイメージを映し出す客体=画面の側も、互いが互いに影響を与え合い、その「かたち」を可塑的に変えながら、主体/客体、人間/モノ、あるいは一/多、部分/全体……といったあらゆる対立図式を不断に中性化していくのである。

『8日で死んだ怪獣の12日の物語』(c)日本映画専門チャンネル/ロックウェルアイズ

 たとえば、『8日で死んだ怪獣の12日の物語』のなかで、それをもっとも鮮やかにかたどっているのが、ほかならぬ主人公たちが育て、その成長プロセスを記録する奇妙な「怪獣」たちの姿だろう。すでに触れたように、その「怪獣」たちは彼ら/彼女らの掌のなかで摘ままれ、握られ、転がされ――まさにタッチパネルの画面のように……あるいはデジタル映像やアニメーションのように!――そのたびごとにグニュグニュウニウニとその「かたち」を柔軟に変え続ける。そしてそれは、物語終盤では突然、主人公の顔に張り付き、それがきっかけとなって主人公=人間の意識の側にもある決定的な気づきをもたらすのだ。その意味で、この怪獣は、本作のZoom画面そのものの隠喩としても機能しているのである。

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