「新しい日常、新しい画面」第1回
“画面の変化”から映画を論じる渡邉大輔の連載スタート 第1回はZoom映画と「切り返し」を考える
過剰コミュニケーション時代とズーノーシス
このコロナに伴う文化や映画の問題を一般化して捉えるために、視野を広げてみよう。
もちろん、ぼく自身は映画批評や映像文化論を専門とする人間であり、今回のコロナ危機をめぐる諸問題については、完全に門外漢でしかない。しかし実際、映画表現のスタイル以外にも、新型コロナウイルスをめぐる知見をいくつか眺めていると、そこにはまさにZoom映画のように(!)ここ数年の文化状況でさかんに注目されてきた論点が、引き続き形を変えながら顔を覗かせている様子が窺われる。そして結論からさきにいえば、それらの論点の中身は、じつは現代映画の状況でもはっきり表れているものだ。
たとえば、よく知られるように、今回の新型コロナウイルスは、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)やMARS(中東呼吸器症候群)と同様、動物(コウモリやヒトコブラクダ)のウイルスが感染元になっている(SARSの場合は、コウモリのウイルスが食用のハクビシンを媒介にしてヒトに感染したが、Covid-19に関してはまだよくわかっていない)。もちろん、このようなヒトと動物に共通する感染症、すなわち「人獣共通感染症zoonosis」(ズーノーシス)そのものは、牛痘、結核、インフルエンザ、HIV、エボラ出血熱などなど、人類と感染症の関わりの歴史のなかで枚挙に暇ないほどさまざまな事例が繰り返されてきた。
しかし、カナダ生まれの歴史家ウィリアム・H・マクニールが『疫病と世界史』(中公文庫)で警鐘を鳴らしたように、ズーノーシスは家畜の創出から都市化までヒトと動物の接触機会が増大したことによる「文明特有の病気」という側面が強まっている。とくに、SARSからCovid-19にいたる21世紀以降の未知のズーノーシスのパンデミックは、グローバル資本主義の拡大によるヒトやモノの過剰流動化と、(感染症と並ぶ21世紀世界のもう片方の脅威になりつつある気候変動の要因でもある)森林伐採などによる大規模な環境変動によって、ヒトとヒトでないさまざまなモノ(動物、自然、無機物……)たちがかつてない近さで緊密に接近し合う局面の増大していることにその原因が求められるだろう。たとえば、SNSやFAANG+M、AIやビッグデータの浸透によって人間と非人間とを問わず日々交わされる膨大なコミュニケーションが不可避的に資本の蓄積に奉仕してしまう現代的な状況を、いまから20年ほど前に北米の政治学者ジョディ・ディーンは「コミュニケーション資本主義」と名づけたが、新型コロナウイルスの登場は、その変異的な帰結のひとつでもある。
ヒトとモノが混淆する「ウイルス新世」
そして、いまズーノーシスという形で見られるような新型コロナウイルスの脅威であるヒトとヒトでない存在との緊密で競合的な相互交渉という状況は、ここ数年、ぼく自身もいたるところで論じてきた通り、パンデミック以前から台頭してきた、きわめて21世紀的な世界システムの特徴を反映している。コロナ危機の場合はむろん、それは具体的には人間と動物、人間とウイルスだが、このような主体と客体、ヒトと自然、ヒトと技術、そして映画論の文脈に引き寄せれば、主体(観客)とスクリーン(映像)という本来は相容れず対立し合う存在がフラットに交差し、ときには融合し、お互いの「かたち」を変えさえするような事態は、今日の社会でいたるところで見られるようになっている。
ディープラーニングが実現したIoTやIoBが体現するヒトとAI(オブジェクト)との対等な交流であったり、アニメやゲームのキャラ(オブジェクト)に恋してしまう現代人は、それぞれそのわかりやすい一例となるだろう。こうしたヒトとモノ、文化と自然が互いに影響を与え合いながら、同じ「アクター」として対等に干渉し合う様態を、フランスの科学人類学者ブルーノ・ラトゥールは「アクター・ネットワーク理論」(ANT)として体系化し、いま幅広い領域に知的インパクトを与えている。だとしたら、すでに医療社会学者の美馬達哉も指摘する通り、ぼくたちと新型コロナウイルスの関係もまた、ともにこのアクター・ネットワークの一員をなしている。「ウイルスはたんなる受け身の客体・対象ではなく、存在としてのコロナウイルスのもつ性質が、人間の側の対応のあり方に大きく影響する」という局面があり、「この意味で、ウイルスは「主体」として人間に対しているとも表現できる」(『感染症社会――アフターコロナの生政治』人文書院、69-70頁)からだ。
ほかにも昨今、グローバル資本主義から気候変動まで、人間と環境とのかつてない混淆状態を表現するために、「人新世」やら「資本新世」やら「プランテーション新世」といった用語が脚光を浴びている。文化社会学者の清水知子は、北米のジェンダー思想家ダナ・ハラウェイが提唱している「クトゥルー新世」という言葉をコミュニケーション資本主義との関連で論じているが(「生(バイオ)資本主義時代の生と芸術」、伊藤守編『コミュニケーション資本主義と<コモン>の探求』東京大学出版会所収)、やたらと新語を乱発することの弊害を承知でいえば、おそらくぼくたちがいま生きているのは、さらに「ウイルス新世」とでも呼びうるような状況なのだ。そのウイルス新世のなかでは、映画におけるぼくたち人間とスクリーンとの関係性もまた大きく変わるだろう。
以上のように、コロナ危機による2020年の「新しい日常」は、それ以前から浮かび上がっていたぼくたちの時代の新しい条件を顕在化させたものである。ここでは、その具体的な姿をさまざまな映画作品の分析から考えていきたい。ぼくがその考察のための拠り所としたいのは、映画論や映画史をはじめ、現代思想やメディア文化論などの知見だが、ここではそれをおもに「画面」の変化に注目して考えていきたいと思う。
さきに結論を少しいってしまえば、20世紀から21世紀の現代にいたる映画の画面には、「明るい画面」と「暗い画面」とでも呼べるようなふたつの傾向(系譜)がある。2020年代の「新しい日常」の映画では、そのふたつの画面の違いが顕著に表れてくるだろう。そして、それはいままでの映画史の見直しを迫ることになるかもしれない。そこまで説得的にたどりつければ、この連載はさしあたり成功だと思う。