純粋な恋愛と純然な映画についての物語 “3人目の主人公”による『劇場』の仕掛け
「まぶたは薄い皮膚でしかないはずなのに、風景が透けて見えたことはまだない。もう少しで見えそうだなと思ったりするけど、目を閉じた状態で見えているのは、まぶたの裏側の皮膚にすぎない」。
又吉直樹による同名の原作小説『劇場』は、男が目を閉じながら世界を見ようとするこの一節からはじまる。これは確かに、1人の男が世界を見ることについての物語でもある。主人公の永田(山崎賢人)は、劇団の脚本家兼演出家として活動しており、日々自意識を持て余している。その自信のなさから、常に卵の殻のようなひ弱さで他人からの否定を恐れる彼は、まぶたを開けて世界を凝視することを避け続ける。偶然街で出会って恋愛関係が始まった沙希(松岡茉優)は、永田との接し方が難しくなるあまり、次第に精神のバランスを崩していってしまう。永田がその目を見開いて直視しようとしないのは、世界だけではなく恋人である沙希に対してでもあった。
東京に夢を持って上京してきた若者同士の恋愛をリアルに描く本作は、多くの観客にとって過去の淡くほろ苦い経験を否応なく呼び起こしてくる純粋な恋愛についての物語である。日活ロマンポルノ作品『ジムノペディに乱れる』(2016年)や他の作品において幾度となく濡れ場を描いてきた行定勲監督が、本作では一切描くことなく、2人の身体的な触れ合いを、「手をつなぐこと」ただそれだけにとどめる。永田が「明日、忘れてくれるんだったら、つなぎたいと思って」と言いながらつながれた2人の手と手は、明日になったら離れ離れになっているかもしれない切ない儚さを、暗がりのなかで醸し出している。ひとつ屋根の下で暮らす永田と沙希が、にもかかわらずどこかプラトニックな雰囲気さえ纏っていることは、2人の関係性が八方塞がりに陥っていくのに逆行するように、まるでこれから始まっていくかのような可能性を最後まで慎ましく維持し続けようとしているように思える。
映画『劇場』は、このように純粋な恋愛についての物語であると同時に、純然な映画についての物語でもあるといえる。映画という視覚メディアに自覚的でいながら翻案された本作は、運動、時間、空間といった映画が持ち得る三大要素をそれぞれ巧妙に浮かび上がらせている。たとえば、永田と沙希が2人で乗る中盤のバイクと終盤の自転車の場面は、その運動が永田自身の心象を表している。沙希が同級生から譲り受けたバイクを試し乗りする永田は、粗暴に同じ道を周回する。永田は同じ場所に立っておどけてみせる沙希の姿を、何度も素通りする。何周かして沙希の姿が見えなくなると、ようやく彼の暴走は終わる。その後、永田が沙希を別の男の家に迎えに行ったあとの2人乗りの自転車の場面では、長回しによってひたすら2人が直線上に進んでいくのを捉える。このまわる運動から前進の運動への変化こそ、独りよがりの自我のなかで堂々巡りを繰り返すだけだった永田が、まっすぐ未来を見据えようと前を向いた姿勢と重なり合うものだろう。
あるいは時間で言うならば、終幕でエンドロールを見つめる映画の観客が、舞台を見つめる演劇の観客と同化するようなある「仕掛け」が施されており、映画の人物と映画を観ている私たちは、同じ時間を共有して映画を観終える。本作で重要な舞台設定となっている「部屋」という空間は、永田、沙希と共にこの映画の3人目の主人公と言ってもいいかもしれない。この「仕掛け」は、部屋があるからこそ可能になるものである。