ジム・キャリーはアニメーションと実写の境を超える “原形質性”から考える“デジタル時代の俳優”

ジム・キャリーから考えるデジタル時代の俳優

 ジム・キャリーのことを「顔芸役者」と呼ぶ人がいる。

 それは侮蔑の意味がこもっている、らしい。コメディ以外の作品への出演も増えたことでそう呼ぶ人も減っているかもしれないが、彼が頭角を現した90年代にはそういう評価をする人も確かにいた。

 しかし、「顔芸役者」がなぜ侮蔑になるのか。彼の表情の柔軟さは誰にも真似できないというのに。むしろ、顔芸を封印した作品の方が世間的には役者として評価されやすい傾向がある。

 そんな彼の最新出演作『ソニック・ザ・ムービー』は、往年の彼の持ち味が存分に発揮された作品だった。『ソニック・ザ・ムービー』は、SEGAの生んだ世界的ヒットゲームを映画化したものだ。ゲームやコミックの世界を実写化することは常に難しいことだが、ジム・キャリーは軽妙にゲームの世界の住人になりきってみせる。

 デジタル技術の発達は、実写とアニメを接近させたばかりか、融合させつつあるが、役者の肉体そのものは強固なまでに実写だ。しかし、ジム・キャリーの肉体は例外だ。彼の肉体は鮮やかに、軽やかに、アニメーションと実写の境を超える。なぜなら、彼の肉体の柔軟さには、アニメーションの特質「原形質性」が宿っているからだ。

 この論考では、もっぱらアニメーションを論じる時に用いられる「原形質性」をキーワードに俳優ジム・キャリーという生身の俳優の魅力をひも解き、アニメーションと実写の区分がしづらくなったデジタル時代の俳優の重要な資質について考えてみる。

原形質性とは

 原形質性とは何か。この言葉を最初に用いたのは、映画の基礎教養ともなっているモンタージュ理論の提唱者セルゲイ・エイゼンシュテインだ。彼自身はアニメーションを作っていないが、アニメーションに関する優れた論考を残している。

 原形質性とは、アニメーションにおける自由な形状変化を指す言葉だ。エイゼンシュテインは、自由に身体を伸縮させるディズニー作品のキャラクターに魅了され、以下のような言葉を残した。

「一度定められれば永久に固定される形状という拘束の拒絶。硬直化からの解放。ダイナミックにいかなる形状をも取りうる能力。この能力を私は『原形質性』と呼ぼうと思う。ドローイングによって具現化された存在は、形状を定められ輪郭を決定されていたとしても、原初的な原形質のようにふるまうからである」(『アニメーションの映画学』、P.66、第2章「柔らかな世界」)

『夜明け告げるルーのうた』(c)2017ルー製作委員会

 原形質的なアニメーションの魅力を存分に発揮する、近年の映画監督の例として最も適切なのは、湯浅政明監督だろう。『夜明け告げるルーのうた』の水の自在な動き、人魚のルーをはじめとするキャラクターたちの伸縮自在な身体、『夜は短し歩けよ乙女』など他作品も同様に湯浅作品のキャラクターたちは様々に身体を伸び縮みさせる。こうした形状変化は、実写作品にはない、アニメーション独自の魅力として多くの作品に大なり小なり見られるものだ。

 しかし実は、エイゼンシュテインは原形質的な魅力を持つものについてアニメーション以外にも見出している。映画批評家の今井隆介氏は、エイゼンシュテインが「ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』やドイツの児童小説の挿絵、日本の浮世絵において描かれてきたような柔軟に伸び縮みする身体の例を列挙し、ニューヨークのナイトクラブで骨や関節がないかのように身体をくねらせるスネーク・ダンサー」などに原形質性を見出していると語っている(『アニメーションの映画学』、P.21、第1章「“原形質”の吸引力」)。原形質性の魅力は確かにアニメーションにおいてその力を発揮することが多いが、提唱者のエイゼンシュテインはそれにとどまらない、普遍的な魅力を持った形式と見ていたのだ。

 アニメーション研究家の土居伸彰氏は、原形質性とはビジュアルレベルの変化のみを指すわけではなく、その神髄は見る者の意識のなかに生まれる変容、「具体的なかたちを持たない抽象的な『メタファー』を流転させる能力」のことで、現実に対して新たな理解をもたらすものだと自著で指摘している。(『個人的なハーモニー』、P.327)。

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