小川紗良の『風の谷のナウシカ』評:すべての悲しみに、きっといい風が吹くように

 翼の生えた青い少女が、暗闇の中を飛んでいる。風に乗って向かう先には、何かに怯える人々がいて、彼女に救いを求めている。神話の一場面のようなその青々とした絵は、DVDの初回特典ソフトケースに描かれていて、幼い私はその空飛ぶ少女に見惚れた。強そうで、優しそうな、少年のようで、少女のような、自由なようで、不自由そうな、まばゆいのに、どこか寂しげな……鳥のような人。彼女の名は、風の谷のナウシカ。幼い私にまだその映画は恐ろしすぎてまともに観ることはできなかったが、それでもそこに描かれた絵は美しく、宝物のようだった。私はよくそれを手にとって、まじまじと眺めてはそっとしまった。

ナウシカの悲しみとそれ故の優しさ

 それがどういうわけか、2020年の映画館にナウシカが舞い戻ってきたという。幼い頃に想い焦がれた絵の中の少女と、やっと、スクリーンで出会えるのだ。彼女はどんな姿で飛び、どんな声で笑うだろうか。新型コロナウイルス以上に、ネットや政治や人間関係のウイルスが蔓延する世の中で、彼女の姿はどんなふうに映るだろう。不安と期待を胸に、私は映画館の暗闇へと沈んでいった。しばらくして、風の音が響き出した。

 初めてスクリーンでナウシカを目の当たりにして、その母性や正義感に圧倒されつつも、最も強く印象づいたのは彼女の纏う悲しみであった。彼女は弱い人にも、強い人にも、虫にも、動物にも、植物にも、全てに愛を持って関わり癒すが、当の本人はずっとどこか寂しげなのである。まるでこの世の全ての悲しみを、たったひとりで背負っているかのように。

 思えば、あれほど母性的な描写(ふくよかな胸、小さき者への優しさ、両手を広げて立ち向かう姿など)で溢れていながら、ナウシカ自身には母親の影がほとんどない。父ジルや師匠ユパを敬い慕う様子は多く描かれているのに、映画でナウシカの母親が登場するのはたったのワンシーンだ。それも遠い記憶の中の、決して視線の交わらない冷たい横顔のみ。記憶の中の母について、ナウシカは語ることも思い返すこともしない。唯一の断片的な母の記憶が、なぜああも遠く冷ややかなのか。多くは語られないが、私はナウシカの纏う悲しみの根底にあの母の姿があるような気がして、原作にヒントを求めた。するとそこには、「母は決して癒されない悲しみがあることを教えてくれましたが わたしを愛さなかった」というナウシカの証言があった。あれほど人を愛し愛されるナウシカに、たったひとりそれの叶わぬ人がいたのだ。ナウシカの悲しみとそれ故の優しさは、すべてそこから始まっているような気がした。

 それはペジテの人質となったナウシカが、ペジテの王妃と少女に救出されるシーンからも見受けられる。ペジテの王妃は自分の娘(ラステル)を看取ってくれたナウシカに対して、「ラステルの母です」と告げる。その瞬間ナウシカの表情は歪み、瞳を潤ませ、「母さま」と言って王妃の胸に飛び込む。それは単にラステルの死を悼むだけでなく、「母さま」という彼女にとって悲しみを象徴する大きな概念に、力一杯抱きついているようでもあった。ナウシカはたったひとつの抱きつく胸を持たないからこそ、広大な自然に向かって愛を注いでいるのかもしれない。

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