2018年、日本映画はニューフェーズへ(前編) 立教、大阪芸大の90~00年代、そしてポスト3.11

日本映画のニューフェーズ(前編)

 さて翻って現在、である。少なくとも党派的な沸騰は起こっていない。もしスクール別に現状況を捉えたとしても、見えてくるものはあまりに小さい。

『君の名は。』(c)2016「君の名は。」製作委員会

 また、いまの我々には2011年の東日本大震災の傷跡――ポスト3.11の軋みや痛み、未来へと生き抜いていくための具体的な難題が現在進行形の問題として圧し掛かっている。この強烈なオブセッションは、東宝の『シン・ゴジラ』や『君の名は。』(共に2016年)、自主映画やドキュメンタリーまで日本映画の全域に遍在するもの。いや、というより、日本から発信されるすべての表現が逃れようもなく本題を共有している。こういった全状況を覆う巨大なテーマが存在するぶん、逆に「映画」というフレームでの突出が見えにくいのだ。

 その中で新しい波を探そうとした時、おそらくそれは複数存在する、といった視座がまず必要だろう。ではどういった動きに我々は着目すべきだろうか?

『菊地成孔の欧米休憩タイム』

 現在の日本映画において、分散した形状で現われる新しい波を捉える試み。そのうえでひとつ示唆的なのが、本サイト『リアルサウンド映画部』で掲載された、音楽家・文筆家、菊地成孔が濱口竜介監督の『ハッピーアワー』(2015年)について論じた「『シネフィルである事』が、またOKになりつつある」というテキストだろう(『菊地成孔の欧米休憩タイム』blueprint刊所収)。この中で菊地は一度「ウザがられるようになった」シネフィル性が、旧世代とは異なる形で「アリ」に戻ってきた「反動」を指摘している。

 ここからは筆者なりの要約になることを許していただきたい。マニア的な特権意識や面倒臭さのせいで、長らく多くの観客が「陰性感情を持って排除していく」流れにあったシネフィル性が、例えばあっけらかんとゴダールやロメールを参照しつつ快楽的に映画を撮る韓国のホン・サンスあたりを嚆矢として、今度は「陽性感情を持って迎えいれて持ち上げる」方向に転じた、と。しかも現在のシネフィル的作り手は教養主義的な抑圧(「知らない」「わからない」ことのコンプレックス)から遠く離れて、ごくフラットな佇まいを基盤に、自分なりの新しいメソッドの組み立てこそを課題としている。そういった「ニュー・シネフィル」が新たな潮流になりつつあるのではないか、という見解を示している。

 おそらくこれはひとつのご名答と呼ぶべきものだ。映画研究者の三浦哲哉も書き下ろしの著書『ハッピーアワー論』(羽鳥書店刊)で菊地の同テキストを引きつつ、「『ハッピーアワー』は過去の作品へのリスペクトをはっきり示しているが、しかし、それにもたれかかってはいないし、目配せの目配せは皆無である」とする。駆使されているのはマニアのエリーティズムとは無縁な具体技法としてのシネフィル性であり、「世界をまあたらしく見させること」に向けて「映画作りの方法論を一から吟味し、作り直すこと」を試みたマスターピースとして熱烈な評価を捧げている。

 筆者も彼らの認識には概ね賛同する。だが、そこでもうひとつ転がして考察すべきなのは、「ニュー・シネフィル」勃興あるいは起動の理由だ。つまりなぜシネフィル性が観る側の「アリ」だけでなく、単なる流行のサイクルとしての揺れ戻しだけでもなく、映画を立ち上げて動かす方法としてもここに来て優位性を伸ばしてきたのか? それはおそらく日本映画の規模の問題も大きく関わっている。(中編に続く

■森直人(もり・なおと)
映画評論家、ライター。1971年和歌山生まれ。著書に『シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~』(フィルムアート社)、編著に『21世紀/シネマX』『日本発 映画ゼロ世代』(フィルムアート社)『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)ほか。「朝日新聞」「キネマ旬報」「TV Bros.」「週刊文春」「メンズノンノ」「映画秘宝」などで定期的に執筆中。

(c)2015 神戸ワークショップシネマプロジェクト

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