『がんばっていきまっしょい』30年越しの“アニメ化”の評価は? ボート競技の“延長”の意味
敷村良子の小説『がんばっていきまっしょい』は息の長い作品である。1995年に第4回坊っちゃん文学賞大賞を受賞した本作は、1998年に映画化されロングラン、後に2005年にTVドラマ化。そしてこの2024年にはアニメ映画化……『あした世界が終わるとしても』などを手掛けた櫻木優平が監督した本作もまた、原作執筆から30年近く経った今でも決して古びていない原作のポテンシャルを存分に発揮した一作となった。
原作の発表から約30年経っているという事実を踏まえて今回の「アニメ化」に立ち会うとき、そこで見えてくるものとは何だろうか。「ボート競技」の物語が長きにわたり「延長」されたことは何を意味するのか。ボート部の活動に打ち込んだ彼女らの軌跡を追うことで考察しようと思う。
本作の主人公・村上悦子は、一言で言えば「諦めた少女」だ。幼い頃は体格に優れ足も速くリーダー的存在だったが成長するにつれみんなに追い越されていき、小学校6年の時はリレーのアンカーに立候補するもボロ負け。途中で諦めて完走すらしなかった彼女は、高校生になった今も何事にも意欲を持てない……冒頭、通っている三津東高校伝統のクラス対抗ボートレースですら途中でオールをこぐのをやめてしまうほどだからほとんど習い性である。だが、ボートレースに感動した転校生の高橋梨衣奈に引っ張られて廃部状態のボート部に入ったことでその運命は大きく変わっていく。
悦子と一緒にボートをこぐ少女は4人。先の梨衣奈に加えて幼なじみで気遣い上手な佐伯姫、そして勝ち気な兵頭妙子といかにもお嬢様然とした井本真優美。名前を貸すだけのつもりだった悦子は、この個性的なメンバーたちに牽引され実際にボートをこいだり大会にも出ていくこととなるが、面白いのはこの関係は集団でこぐボート自体の性質によく似ていることだ。
彼女たちの競技、舵手付きクォドルプルではオールを持つ人間は監督役のコックス以外に4人いるから、誰か1人がこげなくとも残りのメンバーで舟を進めることはできる。誰かが立ち止まってしまっていても他の人間が補うことができる。リレーで走るのをやめて以来進むことを諦めてしまっていた悦子だが、ボート部のメンバーはそのための「回転運動」を代替してくれたのだ。
これは逆もまた然りで、初めて参加した大会では、経験者が多数出場する空気に飲まれ他のメンバーが手を止めてしまった時は悦子が逆に皆を引っ張ってみせる。1人ではなくみんなでオールをこいで前へ進む悦子たちの姿は、ボート競技の持つ力や魅力を非常に分かりやすく伝えてくれていると言えるだろう。
だが一方で本作は、悦子の再びの挫折を通してその難しさもまた描いている。
完走すら危うかった初大会での悔しさをバネに練習を積んだ悦子たちは順調に実力を伸ばしていき、数カ月後の大会ではとうとう最下位脱出に成功。合宿で親睦も深まりこのまま続くかと思われた躍進はしかし、思わぬかたちで歩みを止めることとなった。悦子は練習を続ける中で唯一の男子部員である二宮隼人に恋愛感情を抱くようになっていたが、部員の皆で一緒に行くことになった夏祭りでは下駄の鼻緒で足が擦れて皆とはぐれてしまった上、二宮と梨衣奈が楽しそうに話しているのを目撃してしまう。おまけに浴衣姿だったために体が冷えて翌日には風邪を引いてしまい、病み上がりの遅れを取り戻そうと頑張れば不注意でオールが砕けて姫が負傷……何もかもが噛み合わない状況に心が折れた悦子は練習に顔を出さなくなり、人数を欠いたボート部は水上訓練すらままならない状況に陥ってしまったのだった。
ボートは集団競技である。1人では進めない時に皆で補うことも、その逆もできる。けれど一方、誰か1人の調子が狂うだけで推進力が大きく損なわれるのも事実で悦子の挫折はボート部全体の前進を止めてしまう。だが、ここで私は少し奇妙な問いかけをしてみたい。悦子たちのボートは果たして、彼女たち5人だけでこぐものなのだろうか?