『A LIFE』真の主人公は浅野忠信だーーカリスマ性を封印、初めて見せる“無様”な演技
第6話のラストで、ついに沖田(木村拓哉)と深冬(竹内結子)が抱きあう姿を目撃してしまった壮大(浅野忠信)。考えてみれば、わたしはずっと壮大の目線から、このドラマを見ていたのかもしれない。
沖田は多くの人に求められる存在だ。そのことを誰よりも理解しているのが壮大なのだと思う。だから、壮大のコンプレックスは半端ない。もちろん、かつて沖田をアメリカに追いやってしまった過去も彼の中では大きい。だが、そのことについての自責の念や、妻、深冬をめぐる嫉妬の想い以上に、壮大は沖田という「親友」を前にして、ずっと劣等感を抱いてきたのではないか。
そうでなければ、あそこまで、昔話をするだろうか。野球の話。もんじゃの話。明らかに沖田はその話に食いついていないのに、壮大は執拗に想い出話をする。当初、それは、壮大が沖田に優っていた時代への執着からくる屈折した自慢話にも見えた。だが、違うのだ。壮大は子供のころから沖田にかなわないと思っていたのではないか。だからこそ、過去の話をリフレインする。あれは優位に立とうとしているのではなく、極度の自虐だと思う。野球の話をするとき、もんじゃの話をするとき、壮大は己を痛めつけているようにしか思えない。
壮大が抱えているのは、ストレスではない。痛みの塊である。ある意味、癌細胞に匹敵するくらいの爆弾を彼は、腹のなかにおさめながら、日々を過ごしている。
だが、壮大は沖田を必要としている。ひょっとすると、このドラマに登場するどの人物よりも、沖田を「求めている」のが壮大だ。
そして、それは単に深冬を救うためだけではない。病院のためでもない。ただ、人間としての壮大が、沖田という存在を必要としている。I need you.壮大と沖田、ふたりだけのシーンを観ていると、そんな壮大の魂の叫びが聞こえてくるようだ。
壮大がおこなっていることを型通りに見れば、自分勝手なキャラクターだと思うかもしれない。だが、毎回毎回、なにかをやろうとして、結局、「善意の人」沖田にすべてを台無しにされる壮大の姿を見ていると、感情移入せざるを得ないのだ。
多くの人は、沖田のようには生きられない。とりわけ社会に出てから待っているのは、ほぼ壮大の「道」だけである。壮大は相当な努力をして、この「道」を歩んできたであろうことが、6話では明かされた。だが、それ以前から浅野忠信は、そのように壮大を演じていたと思う。壮大が医者になり、腕を上げ、深冬と結婚し、壇上家の婿となるまでの努力は並大抵のものではなかったに違いない。
もちろん「準備の人」である沖田もまた、凄まじい努力を重ねてきた人物であろう。だが、壮大と沖田とでは、その努力の質があまりにも違うと思う。この努力の違いを、浅野と木村拓哉は、明確に体現している。だから、「男たちのドラマ」として目が離せないのだ。
プライベートがほとんど可視化されない沖田とは対照的に、壮大の私生活は、物語上、モロバレである。そして、めちゃくちゃに人間くさい。女性視聴者のなかには、深冬がいながら、榊原顧問弁護士(菜々緒)と浮気している壮大が許せないという方も多いだろう。そして、榊原ファンのなかには、壮大の彼女に対するあまりにも邪険な態度が理解できないという方も少なくないだろう。だが、ああした設定、ああした描写こそが、壮大というキャラクターのチャームである。
深冬は深冬なりに精一杯、壮大を大切にしている。気を遣うべきところは充分気を遣っている。だが、深冬が壮大を大切にすればするほど、気を遣えば遣うほど、壮大の疎外感は増大していったのだろう。もちろん疎外感の原因は沖田の存在にある。逆に言えば、壮大は沖田を日本国から追い出したにもかかわらず、これまでの結婚生活でずっと深冬に、沖田の幻影を見てきた。彼は、深冬を深冬として見ることができなかった。彼女が病に倒れて、初めて妻をひとりの女性として見ようとしているようにも感じられる。だから、せつない。だから、泣けてくる。
壮大には子供じみたところがある。だから、甘える場所が欲しい。深冬には甘えられない。いや、甘えたくない。そんなささやかなプライドを、すべて榊原にぶつけている。愚かである。だが、同時にものすごく人間的である。都合が悪くなると、「ここから出て行ってくれる?」などと、心配している榊原に平気で言える非情さは、壮大らしい甘えのあらわれ以外の何物でもない。
それにしても、ここまで無様な役を演じている浅野忠信は初めて見る。そして、その無様さがここまでシンプルに伝わってくることにも驚きがある。