木村拓哉は木村拓哉をやめるわけにはいかないーー役者として無限の可能性を示した『無限の住人』

『無限の住人』は映画による「木村拓哉論」だ

 もうすぐ1年になる。そのグループの解散がスクープされ、この国を衝撃が縦断したとき、木村拓哉は1本の映画を撮影していた。スケジュール的には最終盤。新聞報道と、その翌週のテレビ生放送メッセージのあいだの数日でクランクアップを迎えた。まさに怒涛の時期だが、撮影中の彼は終始リラックスしており、キャストとはもちろん、スタッフとの和やかかつカジュアルなコミュニケーションを育んでいたのが印象的だ。わたしはオフィシャルライターとして毎週末京都で現場を見学していたが、とにかく全身で映画を愉しんでいるように映った。11月から1月。真冬の京都は極寒で、木村のシーンはほとんどが屋外。素肌に着流し、裸足に草履という不動の衣裳は昼夜問わず過酷なはずだが、アクション中心のその映画にノースタントで挑む姿には「集中の喜び」が息づいていた。いまにして思えば、木村の取り組みは、さまざまな苦難の混合によってもたらされたものだったかもしれないが、それが、この映画にとって、彼が演じるキャラクターにとって、必然だったと強く思う。

 木村拓哉が、三池崇史監督とタッグを組んだ『無限の住人』は高名な同名コミックが原作。木村を指名したのは三池だという。主人公の万次は、人斬りとしての原罪を抱えている。彼はその罪によって、最愛の妹を心神喪失に至らしめ、さらには彼女の命まで奪われてしまう。呆然自失となった彼の前に、謎の老婆が現れ、彼は半ば無理矢理、不死身の身体を与えられる。万次が望んでいるのはむしろ自死なのだが、彼は死ぬことを許されなくなる。死なない=無敵。死ねない=無限。無敵の底なしと、無限の果てしなさ。この設定を考えついた漫画家、沙村広明はほんとうにすごいと思う。かくして、万次は終わらない時空をさすらう旅人となるしかないわけだが、そんな彼の前に両親の仇を討とうとする少女があらわれる。少女が妹に似ているというその一点において、万次は彼女の申し出を引き受ける。かくして、彼は無数の強敵たちと闘い続けることになるが、闘い続けることで救済が訪れる。いや、より正確に言えば、誰かのために闘い続けることそれ自体が、最良の救いであることに気づく。

 完成した映画は、三池ならではの活劇が間断なく継続することで構成されている。いわゆる痛快なアクションではない。万次は死ねない身体を有しているから、最終的に勝つわけだが、その姿はほとんど勝利の体を成していない。相手はいずれも万次よりも凄腕である。剣の技量では勝っている。だから、万次は斬られる、やられる。万次は不死身ではあるが、痛覚がないわけではない。斬られたら痛いのだ。やられたら痛いのだ。この描写が素晴らしい。この描写を用意した三池がいて、それを体現する木村がいる。そのことに感動する。深読みが許されるならば、木村拓哉その人の姿が、これらの描写には重なるのだ。木村は今回の騒動が起こるずっと以前から、謂れなきバッシングを受けてきた。主に俳優として。ネットの言葉は暴力である。誰もがこう思っているに違いない。木村拓哉は不死身なのだと。だが、斬られたら痛いのだ。やられたら痛いのだ。だが、木村拓哉は木村拓哉をやめるわけにはいない。とにかく、万次は、言ってみれば呪われた身体によって、闘う相手より、長生きすることになる。つまり、生き残る。対決に勝ったわけではない。ただ、宿命のように、生き続けているだけなのだ。この底なしと、果てしなさが、この剣劇を剣劇以上の何かに昇華している。三池や木村がどれだけ自覚的だったかはわからない。だが、本作は結果的に、映画による「木村拓哉論」になっている。死ねない=無敵。死ねない=無限。この、沙村広明が発明した過酷きわまりないループを、三池崇史が木村拓哉に接続したことによって、破格の光景が出現している。

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