小松菜奈の微笑は、撮る側の力量を試す 『沈黙』から『溺れるナイフ』まで表情を考察
小松菜奈が微笑むと、世界が微笑む──この真理を証明した最新の映画が、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙─サイレンス─』だ。小松菜奈は、前出演作の『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』でも、前々出演作の『溺れるナイフ』でも、この真理をはっきり提示してきた。『沈黙─サイレンス─』では、この作品にふさわしいごくごくかすかな微笑みによって、相手役のアメリカの主演俳優に、そして画面を見守る私たちにも、警戒をとき、自分でもそうと気づかないほどそっと微笑みを浮かべるよう促すのである。(メイン写真=『沈黙―サイレンス―』より)
小松が『沈黙─サイレンス─』で演じた役は、ごくささやかなものだ。役名はモニカ。洗礼名である。遠藤周作の原作では、モニカは、ちょうど作品の中間、主人公ロドリゴの書簡による一人称(「私」)の語りの形式を終えて、「彼」という三人称の語りに移行する後半の冒頭に登場している。キチジローに裏切られ、役人に引き渡された司祭ロドリゴが、彼女ら日本人の隠れキリシタンとともに初めて取り調べを受ける重要な場面だ。
スコセッシの映画では、ロドリゴを演じるアンドリュー・ガーフィールドの柔らかな、まだ幼さを残したナレーションの声がほぼ全編にわたって作品の静けさを深く印象づけている。この静かでかすかに甘い(だが安定した)ささやき声の持ち主が、ついに捕らえられ、得体のしれない老人(イッセー尾形)の前に引き出される時、彼にそっと食べかけのキュウリを差し出すのが小松演じる農民の女モニカなのだ。
小さな顔は垢と泥で汚れ、粗末な野良着姿で画面にあらわれた小松に、驚いた観客も少なくないだろう。いつもの透明な肌は濁って暗く、涼やかなはずの目元はボサボサの眉の下で光をうしなっている。だが、彼女が、切り口の白いまだ新鮮なキュウリをガーフィールドに差し出し、ほんの少しはにかんで自身の名がモニカだと告げる時、見るものはふわりと警戒心を手放し、相好をくずす。ガーフィールドの緊張をといた無防備な表情は、あたかもこの瞬間、彼が俳優としての我を忘れて、ただ小松の微笑みにおのずと応じただけでもあるかのようだ。
『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(16、三木孝浩)の小松菜奈は、よく涙ぐむ女の子だった。涙にはわけがあって、そのわけを知ったならむしろ微笑みのほうが奇跡だったのだと分かることになるが、永遠にすれ違いつつ結び合う恋人どうしを描いたこのSFラブロマンスで、わけが分かった後はもちろん、わけが分からない時点ですら彼女の涙に心打たれないだろうか。涙と微笑みのワンセットを、こんなにも的確に物語に沿って演じ分けながら、それでも涙の向こうに奇跡的に透けて見えるのは微笑みのほうだ。
『溺れるナイフ』(16、山戸結希)の小松菜奈は、ほとんどつねに怒っていた。どうにもならない恋と生活に、ヒョロ長い手足で地団太を踏んでモーレツに怒っていた。そんな中、彼女が海辺の小さな町から離れて再び東京へ行き、映画に出て芸能活動を再開することを決めてボーイフレンドに別れを告げるとき、沈み込んでいた彼女を元気づけるために、彼が可笑しなカラオケで彼女を笑わそうとする。彼女がようやく笑ったとき、彼も私たちも、もう何もいらない、別れたっていい、そう思わなかっただろうか。彼女が笑ってくれるなら、何もいらない。まるで映画がそう言っているようだった。
小松菜奈の笑顔と泣き顔をどのように撮るか。それによって、撮る側の力量が試される。そんな俳優だ。2年前の『バクマン。』(15、大根仁)は、彼女が主人公に微笑むラスト近くの別れの場面で、決定的に失敗していたように思う。主人公の描くマンガのヒロインであり、自身は駆け出しの声優であるという小松にふさわしい役──彼女はあくまで表層的な、映画女優の原理のような俳優だからだ──であるにもかかわらず、たんに曖昧なだけの笑みで終わったショットはせっかくの彼女の二次元性を取り逃していた。決定的な瞬間では、映画はあくまで映画の二次元性で勝負しなければならない。
その前年の『近キョリ恋愛』(14、熊澤尚人)は、作品としては『バクマン。』にとうてい及ばないものの、彼女が落とす涙の粒に「パツン、パツン」という可愛らしい効果音が付されていたことによって微笑みをさそった。一方、こうした一連の〈涙‐微笑〉の小松菜奈に対して、『渇き。』(14、中島哲也)という鮮烈な作品の強烈な小松菜奈があったことを忘れるわけにはいかない。『ぼく明日』の対極にあるこの映画の小松はすでに一つの完成形だった。涙など一滴も持たず、すべてを破壊するあの「化け物」と呼ばれた彼女はなんだったのか?