松江哲明の“いま語りたい”一本 第14回
松江哲明の『沈黙―サイレンス―』評:見終わった後に意識が変わる、映画のパワーが詰まった傑作
『沈黙―サイレンス―』はプレミア上映の試写で観たのですが、その日は寝不足で、最悪寝てしまうかもと思いつつ劇場に足を運びました。でも、もう意識が覚醒させられるというか、神経と細胞に訴えてくるものすごい作品で。映画の発するエネルギーが自分の波長と完全に合う、めったにない映画体験でした。
僕の宗教へのスタンスは、「神は信じていない、でも、いたらいいのにな」ぐらいの感じ。どちらかと言うと、ロバート・ゼメキスの『コンタクト』で描かれていたような、生と死が宇宙的なものとつながっている、そんな考え方が面白いなと思うぐらい。だから、本作で執拗に描かれる「踏み絵」のシーンでは、こんなに苦しんでるんだから、踏んでもキリストは赦してくれるに違いないのに、と思う一方で、人間って信仰がないと生きていけないんだな、やはり神様は必要なのかな?と、いろんな考えが渦巻きました。
2時間半以上の長さもまったく気になりません。撮影、美術、演技、すべての細部まで神経が行き届き、ワンカットワンカットが絶妙のリズムで撮られているから、むしろこの尺でなければダメだと感じます。2時間半以上の作品と言えば、フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』などが思い浮かびますが、画の力と尺の長さで魅せる映画を作ることができる監督は本当に一握りだなと。映画自体の時間だけでなく、この映画が完成されるまでにかけられた濃密な時間も感じずにはいられません。
それを顕著に感じたのは、僕たちがよく知っている俳優たちの芝居が、特に小松菜奈さんの演技がこれまでとはまったく違ったところ。日本のドラマなどでは、予算面やスケジュール面の問題なのか、役者が思考し監督と向き合い何度もテイクを重ねるという作業があまりできないことが多い。ゆえに、どこか“急いだ”演技をしている印象があります。一方、映画でも、例えば、『溺れるナイフ』での演技は、ドキュメンタリー的な切り取られ方が目立っていました。芝居に対して追い込まれた演技ではなく、その場で起きた“偶然”を捉えていた感じ。僕もドキュメンタリー監督として、基本的にワンテイクしか撮らない方法をとっているので、それを強く感じました。しかし、今作の小松菜奈には、「こんな顔をするんだ! こんな芝居もするんだ!」という驚きがある。あの役に入り込むまでに、重厚な時間があったことが確かに感じられました。
塚本晋也さんの芝居もすごかった。肉体を研ぎ澄ましてその役柄と同化しているのは、一昨年に公開された塚本さん自身の監督作『野火』との共通点で、おそらく塚本さん自身が考えているテーマこそが、役を引き寄せているのだと感じました。一般的に、役者の方々は、監督が何を求めているのか、自分はそこで何ができるのかを考えている。でも、塚本さんは監督の意向も汲みつつ、その上で監督・塚本晋也が役者・塚本晋也を演出している、そんな印象を受けました。いま、生きている自分がこういった演技でこんな作品に出る、それが観客にどう捉えられるか、そこまで思考して出演している感じなんですね。塚本さんは依頼を受けて作品を作るのではなく、インディペンデントで、その時代や社会が何を求めているのかを受け止めて、一貫した姿勢でものを作っています。その姿勢は役者としても監督としても、尊敬されてしかるべきものでしょう。
役者の芝居をはじめ、画面に映り込んでいるものには、日本映画に感じていた“弱さ”がまったくありません。何にも妥協がない。これは当たり前のことかもしれませんが、スコセッシ監督は世界中の人間を納得させようとして映画を作っていることが伺えます。塚本晋也さん扮するモキチが浜辺で磔にされ、荒波を受ける拷問シーンなんて、日本映画では絶対に撮れないですよ。幕府要人の屋敷にしても、どの日本映画よりも“日本映画”らしいものとなっていて、久々に日本の時代劇の大作を観たなという喜びがありました。
日本映画ってエキストラが文字通り“エキストラ”なんですよ。山下(敦弘)君が『ぼくのおじさん』をハワイでロケしたとき、「ここにはエキストラがいない、みんな“役者”として出演してくれる」と言っていて。通行人でもその役の気持ち・背景を各自が考えているみたいで。『沈黙』の場合も、ポスターなどにも名前がクレジットされていない著名人が多数出演していて、本当に細部に至るまで“役者”が映っている。画面の中にいる誰もが手を抜いていなくて、映画に厚みをもたらしていました。
『沈黙』は宗教というテーマを扱っていながら、絶対にキャラクターを単純化しません。宗教を題材にする映画の多くは、人物が“記号化”されてしまって、登場するキャラクターが物語の駒として扱われるケースが往々にしてよくある。窪塚洋介さん扮するキチジローのキャラクターも葛藤を持っているから、これが人間なんだ!という押し付けがありませんし、イッセー尾形さん扮する井上筑後守もただの悪人ではありません。キャラクターそれぞれが、清濁を兼ね備えた人間として描かれている。言い換えると、解釈を観客に委ねている。だから、観る人によってまったく感じるものが違う。大号泣してしまう人もいれば、ものすごく不快に感じる人もいるでしょう。観ている人のこれまでの人生によって、捉え方がまったく変わってしまう映画。それは僕が目指している作品の理想像でもあります。
“残酷もの”としても非常にスリリングな映画体験でした。映画って、非日常を体験できることが価値のひとつで、この映画で描かれる拷問や人の死はまさにそれ。僕はこの映画を見ていて、大井武蔵野館で観た石井輝男監督の『徳川女刑罰史』といった作品を思い出しました。かつての日本映画は、そうした暴力や死を正面から描いていたんです。思わず垣間見てしまう人の生死、その容赦のなさには、かつての日本映画にも通じる鮮烈さがあります。