松江哲明の『A2 完全版』評:森監督は、報道では描かれない“個人の情”を切り取る

松江哲明の『A2 完全版』評

『A2 完全版』では、複雑な人情が描かれている

 今回は、話題作『FAKE』と併せて公開されている森達也監督のドキュメンタリー『A2 完全版』についてお話します。『FAKE』で森さんのことを知った方には、ぜひ観て欲しい作品です。地下鉄サリン事件以降のオウム真理教と社会との関わりを捉えた『A』、その続編である『A2』、そして『A2』に未公開映像を加えた『A2 完全版』は、『FAKE』にも繋がるテーマを扱っています。

 僕は昨年、京都国際映画祭で『A2 完全版』を観て、森さんと製作の安岡卓冶さんと一緒にトークショーをやったのですが、実はその時、本来ならアーチェリーこと松本麗華さん(麻原彰晃の三女)にも参加していただく予定だったんです。それが、映画祭側の判断で来れなくなってしまって、すごく残念な思いをしました。というのも、『A2 完全版』で追加されたシーンは、まさに彼女が出演しているところだったんです。『A2』のときは彼女が未成年だったこともあり、カットせざるを得なかったそうですが、本当に素敵なシーンで、とても複雑な人情が描かれているんですよ。

 森さんが彼女に、英語で自己紹介をしてほしいとお願いするシーンで、彼女は「どの名前で?」って聞き返すんです。そこで森さんが「自分の好きな名前で」というと、彼女は「My name is Rika Matsumoto」って答える。「お父さんが付けてくれた名前だから」って言っていて、すごく切ないんですよ。そこには言葉にはしがたい、様々な感情が見て取れます。まさに森さんがテレビディレクターではなく、ひとりの作家として一貫して描いているテーマーー社会問題の中に埋没してしまいそうな“個人の情”を切り取っていて、キャッチコピーである“世界はもっとゆたかだし、人はもっとやさしい。”を、そのまま表したようなシーンでした。僕らは15年以上、このシーンを観ないで『A』や『A2』を語っていたのかと驚きましたね。

 上映後のトークショーで、森さんは松本麗華さんが登壇できなかったことについてすごく怒っていて、映画祭側に「その程度の覚悟なら最初から『A2』を上映しないでほしい」って言っていました。その気持ちは、すごくわかります。たぶん、映画祭の人はちゃんと作品を観ていなかったんじゃないかな。松本麗華さんが登壇させてもらえないこと自体が、森さんがいまの日本に対して抱いている問題意識そのものなんだという気がしました。

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 森さんは「オウム事件以降、日本は変わった」って言っているけれど、『A2 完全版』をいま観ると、その意味がよくわかります。マスメディアと民意が暴走して、どうでも良いことまでネタにして取材対象者を徹底的に叩き潰すグロテスクな風潮は、このときに加速したんだなって。地下鉄サリン事件は未曾有の大犯罪であり、社会に与えたショックは計り知れないものがありました。だから決して許されるものではないですが、信者がチャーシューを食べたってことだけで騒いだり、警察は警察でカメラの前でいわゆる“転び公妨”を平気でやったり、オウム信者に対しては人権など無視しても構わないという態度になっているのは恐ろしいです。今年に入ってからも、なぜこんなことで世間は大騒ぎしているんだろうって事件がたくさんありましたけれど、その怖さは『A2 完全版』でも描かれています。

 一方で、信者たちに寄り添うことで見えた人々の優しさも映し出された作品です。たとえばオウム信者の施設の近くに監視所ができて、はじめは地域住民がものすごい剣幕で彼らを追い出そうとするんだけれど、実際に交流しているうちに多くの信者は決してコミュニケーションが不可能な、危険な存在ではないことがわかって、いつしか監視所が地域交流の場になってしまう。頑固だったおじさんが「オウムは理解できないけれど、お前個人は好きだよ」って、寛容な態度に変わっていくんです。でも、オウム信者と地域住民が打ち解けていく様子を、当時のメディアは一切報道してこなかった。“オウムは悪物だ”って、話を単純化してしまう。彼らの交流は、数字でいうとゼロとイチの間にある小数点というか、四捨五入すると消えちゃうような部分なんだけれど、本当はそこがすごく大事だよねってことを、森さんはずっと伝え続けています。

ドキュメンタリーはジャンルではなくて手法

 僕は森さんの表現の中で、映像作品が一番好きなんです。著作も読んできましたし、その中では細かなニュアンスまで言語化されていてとても興味深いのですが、やはり森さんならではの映像の感覚というか、取材対象の世界にすっと入っていけるセンスは抜群です。正直なところ、森さんの作る画は、アングルも構図もそれほどすごいとは思わないのですが、機微を捉える嗅覚が鋭いから、後からスクリーンで観ると「これは映画だ」って感じさせる作品に仕上がっている。だからこそ人と共有して、語り合いたくなるんです。いまの社会がなぜこれほど窮屈なのか、その疑問に対するヒントが、森さんの作品にはあります。

 ただ『A2 完全版』にしろ『FAKE』にしろ、決して真実を追求する作品ではありません。ドキュメンタリーというと、真実を追求したジャーナリスティックな作品ばかりを求める人がいるけれど、必ずしも全ての作品に答えが必要なわけではないんです。しかし、やっぱり「事件の顛末が描かれていない」とか、「結局、なにが原因でオウムが暴走したのかわからない」みたいな批判は出てくる。それはある程度、仕方ないことだと思いますが、いまだにドキュメンタリーはそういうことばかりを期待されてしまうのか、との思いはあります。というのも、ドキュメンタリーはジャンルではなく手法であって、映画の作り方の一つでしかない。もちろん、真実を追求するためのドキュメンタリーもあるけれど、森さんや僕が作っているのはそうではない。報道とかジャーナリズムではなく、実際に人々にカメラを向けたときに出てくる人間味ーーちょっとした滑稽さや悲しみを捉えたいと思って、ドキュメンタリーという手法を採っているんです。

 古い映画で言うと、今村昌平さんの『人間蒸発』とか。あれは失踪した恋人を探していくうちにどんどん現実と虚構がぐちゃぐちゃになっていくのが面白かったし、原一男さんの『ゆきゆきて、神軍』はカメラがあることによって奥崎謙三さんが狂気を帯びて、最終的には発砲事件まで起こしてしまうのが衝撃的だった。ドキュメンタリーが現実に加担することによって、思っていたのとは違うところにたどり着くのが面白さなんです。『FAKE』でも、夫婦の関係性だったりとか、豆乳を飲むシーンにこそ、佐村河内さんの人間味が見えて面白いんですよ。それは報道では描けないものです。

 なぜドキュメンタリーに報道的な要素が求められるかというと、それはまだこの新しい手法について、よく理解されていないところがあるからだと思います。報道を目的としない、人間密着型のドキュメンタリー映画が増えたのって、実はここ20年くらいなんですよ。フィルムと違って、簡単に長時間回せるビデオカメラが普及したことで、ドキュメンタリーの形式自体が変わってきた。先述した『人間蒸発』や『ゆきゆきて、神軍』のようなドキュメンタリーはすでにあったけれど、『A』が公開された98年頃からビデオでも上映できるミニシアター系の映画館が増えて、それと同時にドキュメンタリーの公開本数もぐっと増加して、作風にもバリエーションが生まれてきたんです。それまでのドキュメンタリーは、左翼運動系の作品などが多くて、質疑応答とセットで市民文化会館で公開されるようなものばかりでした。劇場公開してヒットした映画は、原一男さんや佐藤真さんの作品くらいしかなかったんですよ。そのイメージがいまも根強くて、人間味をあぶり出そうとするドキュメンタリーはまだ浸透していないんだと思います。

 そういうドキュメンタリーにとって大切なのは、撮る人と撮られる人の関係性で、それを構築するのはとても時間がかかります。森さんは、ストーリーを描こうとしていないし、事件の真相を暴こうともしていない。対象者に向かって「あなたの悲しみを撮りたいんです」って隠さずに伝えて、彼らの人間味溢れる一面を切り取ってくる。『A2 完全版』はまさにそういう作品で、しかも怖いほどにいまの時代にも合致する内容にもなっている。その時代において本当に強度を持ったテーマを上手く掴まえている映画は、10年経っても20年経っても、色褪せないんですね。

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