宮台真司の月刊映画時評 第5回(後編・前半)
宮台真司の『LOVE【3D】』評:「愛の不可能性」を主題化した「いとおしさ」に充ちた作品
恋愛的性愛の渾沌を描く『LOVE【3D】』
おさらいすると、社会の完成や愛の成就が本来可能なのに、悪や不条理のせいで妨げられている、とする<可能性の説話論>。社会の完成や愛の成就は本来不可能なのに、何らかの装置が働いて完成や成就を夢想するという<不可能性の説話論>。今回は後者に属する作品を検討している訳です。
今までに触れた『FAKE』と『カルテル・ランド』が「社会の不可能性」を主題化した作品だとすれば、前編で予告した『LOVE【3D】』(ギャスパー・ノエ監督/4月公開)と『さざなみ』(アンドリュー・ヘイ監督/4月公開)は「愛の不可能性」を主題化した作品だと言えます。
『LOVE【3D】』は主人公が、姿をくらました女との濃密な思い出を描く作品。3D映像の過激な性描写が話題ですが、観客が箱の中のミニチュアの如く慈しめるように狙ったらしい。狙い通りかは別に、慣れ親しんだ2D映像じゃないのでAVみたく欲情せず覚めた目で見られます。
冒頭と終盤に、主人公の米国人マーフィ(カール・グルスマン)に対する、消えた恋人エレクトラ(アオミ・ムヨック)の「あなたは愛が分かってない」という台詞があります。主人公がどんな意味で「愛を分かってない」か。その謎解きが全体のモチーフを形作ります。では謎を解きましょう。
監督はアルゼンチン出身。幼少期をニューヨークで育ち、フランスで映画を学んだ。作中「米国人/フランス人」の対比が見られ、「米国人は所有possessionを求める」等と定番の皮肉も登場、米国人の性愛が馬鹿にされるのは、ジャン=マルク・バール『SEX:EL』(2001)等と同じです。
でもフランスがさして肯定されてもない。監督はセックス自体より《愛におけるセックスの次元》つまり恋愛的性愛ないし性愛的恋愛の渾沌を描いたとします。只かつてのフランス恋愛文学と違い、性愛的恋愛を愛でる訳ではなく、国境を越えた性愛劣化についての、観察があります。
婚姻モノガミー外だった<愛のセックス>
少し深めます。セックスには<愛のセックス><祭りのセックス><ただのセックス>があります。監督は<愛のセックス>と<祭りのセックス>の交点(共通集合)に興味を抱いていますが、<愛のセックス>と<祭りのセックス>が、各々別々の仕方で制度と結びついてきたことに、注意が必要です。
<愛のセックス>は歴史が浅く、12世紀南欧で吟遊詩人の戯れとして始まった、成就(<交換>)を求めない既婚婦人の崇高化(<贈与>)が、16世紀には宮廷に持ち込まれ、既婚者同士の婚外関係に移行します。そこでは成就が求められましたが、成就が非成就を意味するという逆説がありました。
即ち<部分(只の女)の全体化(世界の全て)>、言い換えれば<俗の聖化><内在の超越化>というありそうもなさゆえに、相手の「真の心」──相手が言う「あなたは世界の全て」は本当か──が問題となり、「病や死こそが「真の心」の証」(として相手に受容される)という形式に展開したからです。
ところが19世紀半ばに、印刷術の発達て恋愛小説が普及すると、病や死ならぬ、結婚の決意を以て「真の心」の証だと理解する、その意味で謂わば結婚によって「真の心」を買うが如き、<交換>としての「恋愛」が、西洋世界で一挙に人口に膾炙します。今は御存じの通り、崩壊しかかっています。
但しモノガミー(1対1)は、1万年前からの定住化(農耕牧畜化=動植物の栽培飼育)に伴う、ストックの成立と分配を制御する必要から、正則的性愛関係(婚姻)をそうでないものから区別するべく始まったもの。つまりモノガミーは婚姻に関するもので、元々は恋愛とは無関係だったのです。
12世紀に始まる恋愛love=情熱愛の歴史に於いても、情熱は「制御不能な感情」のことでしたから、恋愛=情熱愛は、制度でしかない結婚の外側にあると考えられる他なく、従って12世紀から19世紀半ばまで一貫して、恋愛は既婚者同士の婚外関係に於いて生じるものとされて来ました。
要は<情熱と制度は両立しない><恋愛と社会は両立しない>とする観念が維持されて来たのです。かくて長らく[婚姻=モノガミー]/[恋愛=非モノガミー]の図式が続いたところが、19世紀半ばに結婚と恋愛が結合して、[恋愛=モノガミー]というかつてない図式が誕生したのでした。
<祭りのセックス>の人類学的歴史
確認します。モノガミー的<愛のセックス>は百年余りの歴史しかなく、非モノガミー的<愛のセックス>に拡張しても数百年の歴史しかありません。これらに比べると<祭りのセックス>は遙かに古くからのもので、その起源は1万年前からの定住社会の始まりと関係すると考えられます。
定住化に伴うストックの保全と配分の便宜から、婚姻(正則的性愛関係)というモノガミーが始まります。但し、既に話した通り、性愛は婚姻に独占されてはおらず、婚姻の正統性を脅かさないように多少は隠されてきた程度のことでした。その正則性すら、祝祭時には誰もが逸脱しました。
なぜか。定住化に伴う婚姻のモノガミーが、所詮は仮象つまり<なりすまし>である事実を再確認すべく、祝祭時に敢えてタブー侵犯──公然の乱交など──がなされたのです。因みに祝祭には、定住化に伴う新たな社会的仕組が<なりすまし>であることを確認する一般的機能があります。
具体的には、性愛局面に限らず、男女の入れ替え、大人子供の入れ替え、強者弱者の入れ替え、タブー・ノンタブーの入れ替えにより、定住化に伴う、ストックを前提とした<交換>的秩序──モノガミーは一例──の外側に<贈与>の過剰が満ちる事実をリマインドさせるものが、祝祭なのです。
とはいえ、クリストファー・ライアンが注意を促すように、性愛は間違いなく特異点をなします。というのは、性愛の衝動は多少なりともアモルファス(無定型)で、その営みには反秩序的な契機が元々孕まれるからです。我々が絶えず婚外の相手に欲情する事実を持ち出す迄もありません。
これについてはフロイトの知見が面白い。定住社会を支える法に従う際、ヒトは必ず裏で、法破り(タブー侵犯)に向けた否定のエネルギーを蓄積し、それが超自我(裏の法)を構成します。ラカンによると、タブー侵犯に伴う、苦痛と言える程の激しい享楽juisanceは、超自我に由来します。
ここでフロイト基本図式を確認します。まず、ヒトの本能は不完全です。動物の本能はエネルギーと情報の組合せで、エネルギー発露の仕方のプロトコルを伴います。ヒトの場合、エネルギーはあっても情報を欠きます。生理的早産なので、エネルギー発露のプロトコルが未熟なのです。
ヒトに特有の、情報を欠く未規定なエネルギーを、欲動(衝動)と呼びます。この状態では社会生活を営めないから、欠けた情報は後で書き込まねばなりません。生得的プログラムの欠如を習得的プログラムが埋めるのです。習得的プログラムは伝承を可能にすべく言語的に構成されます。
言語使用は必ず地平(別様であり得る可能性)の抑圧を伴います。例えば賞賛は侮蔑の抑圧を伴います。抑圧された地平──否定された項目群──はプールされて無意識を構成します。加えて無意識の構成は換喩的(音像の類似による連結)・隠喩的(意味の類似による連結)になされます。
纏めると、未規定なエネルギーを水路づける言語プログラムは外傷的に書き込まれ、無意識の抑圧を副作用的に伴います。無意識を構成する抑圧された否定項目は、隠喩と換喩で相互に関連し、夢や言い間違いの形で観察可能になります。これを“抑圧されたものの回帰”と言います。
以上の機序は、性愛に於いて最も典型的に表れます。フロイトが言うように、性愛の欲動は元来、多形倒錯です。消しゴムに性欲を感じても不思議じゃない。これを言語プログラムを用いて外傷的に抑圧することで、遅くとも3歳迄の間に、多くのヒトが異性愛の性欲へと「整形」されます。
今日、<愛のセックス>は、婚姻モノガミーに優先権が与えられます。子供の帰属が、婚姻モノガミーに優先権が与えられているのと同型です。でも、婚姻モノガミーは元来、専ら子供の帰属に関する制度であり、婚姻した夫婦が、子供と同じく愛も排他的に所有することは、なかったのです。
ところが、当初は婚姻者の婚外関係にだけ生じた非モノガミー的な情熱愛が、やがて性交を伴って<愛のセックス>を誕生させた後、それでも暫くは愛はモノガミーとは無関係だったのが、結婚と出産に至る<愛のセックス>が最高ランクとなり、恋愛モノガミーが普及することになります。
こうした言語プログラムの書き込みで“抑圧されたもの”は、超自我の働きを経由することで、倒錯への欲動として“回帰”します。後論に関連しますが、倒錯には、タブー侵犯の如き、社会の計算可能な補完物でしかないものと、オルタナティブな秩序を構想する、反社会的なものがあります。