宮台真司の『LOVE【3D】』評:「愛の不可能性」を主題化した「いとおしさ」に充ちた作品

宮台真司の『LOVE【3D】』評:「愛の不可能性」を主題化した「いとおしさ」に充ちた作品

どこかに行けそうで、どこへも行けない

 以上のことを弁えていれば、エレクトラが、乱交クラブでの営みを、単なる乱交としてでなくスワッピングとして享受しようとしていたこと、マーフィには彼女の企図を理解する力がなく単に乱交を展開してしまったこと、監督がその差異を際立たせようとしていたことが、分かります。

 繰り返すと、乱交クラブでのマーフィは、<なりすまし>の確認ならぬ、近代社会に於ける単なるガス抜きとしての不全な<祭りのセックス>に、淫するだけなのに対し、エレクトラは<祭りのセックス>の不全を埋合せるべく、<愛のセックス>と<祭りのセックス>の重なりを生き「ようとする」。

 マーフィは、非モノガミーを不全な<祭りのセックス>──遊びのセックス──にだけ配当、<愛のセックス>にはモノガミーを配当します。対照的にエレクトラは、矛盾しつつも彼女なりの仕方で、非モノガミーを<愛のセックス><祭りのセックス>の重なりに配当、共有愛を生き「ようとします」。

 マーフィは、エレクトラの構えに先の述べた矛盾が含まれることもあって──そうした矛盾は「つきもの」ですが──、彼女にシンクロできません。精確に言えば、彼女は彼がシンクロしてくれている様に感じません。但しエレクトラはマーフィよりも愛について楽天的という訳ではありません。

 それを理解するには、不可能性という例の鍵概念に踏み込まねばなりません。そのために乱交とスワッピングに共通する「だるさ」を持ち出した訳です。それを一言で言えば、<どこかに行けそうで、どこへも行けない>という「だるさ」、即ちハイデガーが言う「第3の退屈」になるでしょう。

 <ここではないどこか>もそこに到れば<ここ>となり、再び<ここではないどこか>に向かうが、そこもやがて<ここ>になれば……。同じ営みの繰返し。それを、引いた視線から観照(テオリア)する場合──ノルベルト・ボルツが言う「サード・オーダー」──に訪れる感覚が「第3の退屈」です。

 それで言えば、この映画には、<どこかに行けそう>と思う馬鹿男と、<どこかに行けそうで、どこへも行けない>と弁える女、という対立があります。同じ対立が、先に触れた三浦大輔監督『愛の渦』にも描かれています。『愛の渦』のラストの喫茶店シーンで象徴的に明示されるものです。

 『愛の渦』では、乱交など所詮<ここ>に生じた息抜きでしかないと弁える女子学生と、対照的に終わりなき日常の<ここ>からの出口としての<ここではないどこか>を見出す男子学生が、比べられます。乱交に「遊びのセックス」しか見ないのが女である点、一見『LOVE【3D】』と逆です。

 しかし、既にお示ししたように、<ここ>に留まるのがオージー(乱交)で、<ここではないどこか>を想像的に開示するのがスワッピングです。たかがオージーに輝きを見るのは中二病ですが(『愛の渦』)、スワッピングの場をオージーとしてしか生きられないのも中二病です(『LOVE【3D】』)。

 『愛の渦』と『LOVE【3D】』が、同じ中二病を描いていることに、気付かなければいけません。他方、乱交など所詮息抜きと見切る女子学生と、スワッピングで酩酊しようとするエレクトラも同じ存在。女子学生も、愛する男を見出せば、スワッピングのトランスにハマる可能性があります。

「だるさ」から「いとおしさ」へ

 大切なことは、愛する男女が、愛を継続すべく、感情の惹起を目差して工夫するスワッピングの場を、濃密な「だるさ」が覆い、それを参加者の多くが弁えていることです。所詮は同型の<感情プログラム>をインストールされているがゆえの「輝き」に過ぎないという<三文小説性>の自覚です。

 こうしたプレイの経験が豊富だろうエレクトラは、当然この<三文小説性>を自覚している筈です。自覚しつつ「輝き」を体験している、或いは「輝き」を体験しつつも自覚している訳です。恐らくはこれは監督自身の自覚です。そのことが、監督がなぜ中二病をいとおしむのかに、関連します。

 スワッピングの時空が非日常の「輝き」に満ちていればこそ、ヒトが所詮は皆同種のプログラムをインストールされた<感情の動物>に過ぎない事実を、再帰的に突き付けられ、「輝き」ゆえに「だるさ」を体験します。しかしその先があります。何と「だるさ」が「いとおしさ」へと変じるのです。

 誰もが大差なき<感情の動物>であるがゆえの、<三文小説性>に満ちたドラマこそが「奇蹟」であり、「いとおしい」のだという感覚が湧き上がります。現場で凡庸な感情を生きる全ての者達を愛しむその感覚は、オージー(乱交)の現場にいる全ての人さえをも愛しむ感覚にさえ繋がります。

 SF作家J・G・バラードの終末三部作とりわけ『結晶世界』(原書1966年)には、<世界>(宇宙全体)が終末を迎えつつあるとの予感が、<三文小説性>に満ちた営みをこそ、むしろ奇蹟として「いとおしむ」感受性を高める事が描かれます。この映画の監督にもそれがあるかもしれないと感じます。

 取材を通じて学んだのは、この「いとおしさ」の感覚が、風俗で働く女性の一部が男性客に感じる「いとおしさ」に似ることです。こと程さように「いとおしさ」の体験は男より女のほうが接近しやすいように僕は感じます。『LOVE【3D】』と『愛の渦』には、同じ「いとおしさ」が漂います。

 敢えて断る迄もなく、ここで言う「いとおしさ」「愛しみの感覚」は、何かを自分のものとする<所有化>によるのでなく、むしろ<世界>は確かにそうなっているという<寓話化>によるものです。『愛の渦』に寄せた先に紹介したコメントは、そうした「愛しみの感覚」の充満に、言及しました。

 同じ「愛しみの感覚」が『LOVE【3D】』にも充ちています。僕が『愛の渦』のラストで向こうに駆けていく主人公の若い男に心からGoodLuck! と声をかけたのと同じように、『LOVE【3D】』でギャスパー・ノエ監督もやはり主人公の若い男に心からGoodLuck! と声をかけているのです。

しかし、映画を見た後に周囲の若い男達と話した限りでは、この映画の企図は殆ど理解されていません。複雑性に打ちひしがれている主人公を、誰もが若い頃はそうだ、俺や仲間も昔はそうだった、と励ましているのですが、若い男達は、こんなに複雑なら退却しよう、となっているのです。

 これは昨今、性愛に関わる映画が直面しがちな困難です。「混乱こそ我が墓碑銘(Confusion will be my epitaph.)」(キングクリムゾン「クリムゾンキングの宮殿」ピート・シンフィールドの歌詞)であることを伝えるべく、混乱を描き出すと、「混乱はイヤだ」と客が逃げ回る。<クソ社会>は既に閾値を超えた可能性があります。

■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter

■公開情報
『LOVE【3D】』
監督・脚本・編集・製作:ギャスパー・ノエ
撮影:ブノア・デビエ
音楽:ケン・ヤスモト
VFX:ロドルフ・シャブリエ、マック・ガフ・リーニュ社
出演:カール・グルスマン、アオミ・ムヨック、クララ・クリスティン
配給:コムストック・グループ
配給協力:クロックワークス
原題:LOVE 3D/2015年/フランス・ベルギー合作/英語/スコープ/135分/R18+
(c)2015 LES CINEMAS DE LA ZONE . RECTANGLE PRODUCTIONS . WILD BUNCH . RT FEATURES . SCOPE PICTURES .
公式サイト:http://love-3d-love.com/

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