宮台真司の月刊映画時評 第5回(後編・前半)
宮台真司の『LOVE【3D】』評:「愛の不可能性」を主題化した「いとおしさ」に充ちた作品
共有愛と複数愛の巨大な差異
非モノガミー的な情熱愛が、性交を伴い始めて<愛のセックス>を誕生させた後、それでも非モノガミーが<愛のセックス>を貫徹し続けていたところに、結婚と出産に至る<愛のセックス>の最高位だとする「性=愛=結婚の三位一体」という恋愛モノガミーがセセリ出すようになったこと…。
この図式は百数十年の歴史しかなく、今や三位一体は崩れていますが、それは結婚が後景に退いただけの話であり、「性は愛と結びついた時に最大の快と幸をもたらす」という観念や、「最高位の愛の関係が子供を独占する」という観念は、観客だけでなく、映画の登場者たちも縛っています。
以上は学術的議論ですが、婚姻モノガミーが与えた後遺症としての束の間の恋愛モノガミーを、ある程度は相対化する力──学術的というより経験的な力──がないと、映画の見掛け上の扇情性のハレーションで主題を見失います。むろん見る人が見れば本作には扇情性のかけらもありません。
消えた恋人エレクトラは、主人公マーフィ以上に<愛のセックス>を追求しています。追求するがゆえに、<愛のセックス>の触媒としての3Pや交換プレイなどの経験もふんだんにあります。のみならずマーフィの17歳の隣人オミを交えたポリアモラス(共有愛的)な関係をも仕掛けます。
なのに、エレクトラは、エレクトラ&マーフィの対が最高位であることを脅かす出来事については、一見ポリアモリーとは思えない激昂ぶりを示します。マーフィがオミとこっそり性交して妊娠させた事や、乱交クラブでマーフィが第三者と手洗いでこっそり性交した事への、憤激です。
何がポリアモリー(共有愛)かは活発な議論がある所ですが、それが<愛のセックス>の一種であること、従って、愛を欠いた複数プレイではないことや、愛が伴うとしても複数のラインが情報遮断された多股関係ではないことについては、今日の欧米では共通了解があるだろうと思われます。
ここまで述べれば、消えた恋人エレクトラから米国人マーフィに2回投げかけられた「あなたは愛が分かっていない」という言葉に、エレクトラが籠めた意味や感情が──賛同・共感できるか否かに拘わらず──日本人の観客たちにも辛うじて理解できるようになるのではないでしょうか。
確かにマーフィは共有愛が《愛を欠いた複数プレイではないことや、愛が伴うとしても複数のラインが情報遮断された多股関係ではないことについて》理解を欠き、それが米国人にありがちな免疫の無さ──複数プレイ自体に過剰に仰天して興奮したり──に由来するのだとされます。
その意味ではマーフィの未熟さが明白ですが、マーフィの情報遮断的な複数愛に、共有愛を志向するエレクトラが過剰反応を示す点は、論争的です。第一に、どんな共有愛にも完全な情報共有はなく、複数の参加者が各々デリケートに操縦する情報非対称性がつきものであるということ。
第二に、複数の情報非対称性は、局面毎に異なる優先順位──コノ感性やプレイはAと共有し易いがアノ感性やプレイはBとし易いなど──に関係し、そうした優先順位(に伴う秘密)の排除は不可能ですが、エレクトラは秘密に厳格に抗うクセに、他方で優先順位の維持に固執し過ぎること。
固執し過ぎるから、エレクトラ&マーフィの対の最上位性を脅かす逸話を許せない。これはしかし、エレクトラ&マーフィの対が、他の全ての参加者や参加者同士の関係を道具──オカズ──として使うことと同じで、行き過ぎれば、対(つい)のエゴを野放しにする変形モノガミーになります。
主人公の中二病が愛しまれる理由
僕が思うに、エレクトラの矛盾は敢えて設定されたもの。主人公マーフィが、かかる明白な矛盾に満ちたエレクトラにガチで振り回される程度の中二病──自意識の病から外に出られないヘタレ──に過ぎないことを、印象づけるためだと思われます。この主人公の設定が主題に関連する。
「主人公は未熟過ぎて愛する女の心的作動を理解できず、それゆえ彼女の中に結んだ自分の像を触知できず、それで自分が何者なのか分からなくなって崩れる」というビジョンが全編覆います。その女が行方不明になったので、自己像を与えてくれる女を巡って「母をたずねて三千里」。
しかし、観客が対象をより愛しめるように3D化したという監督の言葉にシンクロかの如く、この作品は、主人公の中二病ぶりを否定的に描くより、むしろ愛しんでいます。一口で言えば、「俺もかつてはそうだった、俺の周囲にいる仲間達もそうだった」というレトロスペクティヴです。
性愛についてはこうしたモチーフの設定がしばしば見られます。例えば、劇団ポツドールを主催する三浦大輔が脚本・監督を務めた『愛の渦』(2013年)がそう。乱交パーティで、参加者の女子大学生に恋をしてしまった男子大学生の「中二病」ぶりを、それこそ愛しむように描いています。
人間は〈感情の動物〉である。
愛も嫉妬も感情プログラムの帰結だ。
「現場」では嫌でもそれを見せつけられる。
非日常に見えて毎日どこかで反復される三文小説。
名状しがたい〈だるさ〉が襲い、そして福音が訪れる。
この三文小説ゆえに〈いとおしい〉との感覚が湧き上がる。
ただし〈所有のいとおしさ〉ではなく〈寓意※のいとおしさ〉だ。
主人公の青年はそれが分からぬまま、最終画面で向こうに駆けていく。
かつて青年と同じ経験をして迷走した僕は、心から GoodLuck! と祈った。
※寓意:この世は確かにそうなっているという納得
この映画に僕が寄せたコメントです。先ほどは「愛の不可能性」を通時的に一瞥しましたが、『愛の渦』に言寄せて共時的にも一瞥して置きます。単独メインの乱交(オージー)と、夫婦や恋人が参加するスワッピングは、永らく厳密に区別されていました(過去完了形であって今は違います)。
僕は多くを取材しましたが、共通のキーワードは「だるさ」です。但し両者は「だるさ」の質が違う。乱交の「だるさ」は、男が射精後に隣人の性交を見た時に訪れますが、「賢者モード」とは少し違い、正確には「これは非日常ではなく、反復される日常なのだ」という気づきが与えるものです。
乱交とは異なるスワッピングのだるさ
スワッピングの「だるさ」は説明が要ります。十五年程前に外部者がアクセスできるサークルは全滅しました。表面的にはネット時代下での情報管理の困難ですが、深層的には「それ程」愛し合うカップルがいなくなった(から参加者相互の情報管理にコミットしなくなった)のが理由です。
「それ程」とは「どれ程」か。調査すると、参入動機の第1は、夫婦や恋人の浮気による嫉妬地獄と痴話喧嘩を克服したい。第2は、夫婦や恋人相手のマンネリを打破する筈の浮気にも飽きた、やはり愛する相手との間の熱情自体を回復したい。第3は、性交はともかく夫婦で社交がしたい。
各々5割・4割・1割です。第3は若年だけ。動機付けが斉一的パターンなのも驚きですが、参加して1年以内に「同室プレイ⇒別室プレイ⇒貸出プレイ」と内容が展開する斉一的パターンも驚きです。「見えなくて悶々とし、後で相手から聞き出しても虚実が判らない」のを愉しむ訳です。
だから男が性交しない場合も多く、補うべく単独男性を仕込みます。女に尋ねると、「愛する男が、分身の術で、見知らぬ男に化身し、自分を責めている」と感じる体験パターンも、「愛する男を、後の告白で興奮させるべく、タブー破りをあれこれ工夫する」行為パターンも、実は斉一的です。
こと程さようにスワッピングが成り立つのは愛で結びつくカップルだけです。当時最も上質だった「女神の唇」は、超高級ホテルのスイート部屋にドンペリとフルーツの世界で、やりまくりを競う乱交とは全く違う感情のゲームがありました。でもそこに漂うのも実は「だるさ」なのです。
乱交と違う「だるさ」と言いました。乱交の「だるさ」はアッパー系薬物に似て、非日常的刺激が慣れで日常化して「頭打ち」になるのですが、嫉妬の感情を使うスワッピングはエモーション系薬物に似て、頻度にさえ気を遣えば「頭打ち」と無縁でいられます。でもだからこそ「だるい」のです。
困難ながら敢えて一口で言えば、「なぜヒトはそこまでしてパターン化された感情をもたらすために頑張るのか」──。ヒトは<感情の動物>で、ヒト独自とされる愛も嫉妬もインストールされた<感情プログラム>の帰結ですが、誰もが同じプログラムをインストールされている切なさ。
《ヒト独自》と言いましたが、比較認知科学が、五百万年前に分化したチンパンジーとヒトの嫉妬形式を比較した知見を与えています。チンパンジーは眼前でなされた性行為にだけ嫉妬します。ヒトは、言語的な不完全情報があるだけで、「不在のもの」に反応して、嫉妬で気が狂います。
「同室プレイ⇒別室プレイ⇒貸出プレイ」の展開は、「不在のもの」に反応するヒトの習性を利用したものです。「眼前のもの」に反応する超自我(タブー侵犯)的な乱交と、「不在のもの」に反応する<感情の相互浸透>(例:妻はどんな快楽を得たのか)を要素とするスワッピングは、本来違うのです。