宮台真司の月刊映画時評 第3回
宮台真司の『岸辺の旅』評:映画体験が持つ形式のメタファーとしての黒沢作品
黒沢十八番の通過儀礼モチーフ
その事実が象徴するように、黒沢作品のコアモチーフを一言でいえば「イニシエーション=通過儀礼」です。通過儀礼は「離陸して、カオス体験をして、着陸する」という3段階から成り立ちます。そして、着陸面が、離陸面とは必ず異なっていることが大切です。
本作では、深津絵里演じる妻が、夫の自死がもたらした「夫は何者だったのか、二人の関係とは何だったのか」が分からない不全状態から、「離陸」して、夫の死後の旅を辿り直す「カオス」体験を経て、望みがかなったがゆえに安定した状態へと「着陸」します。
「離陸→カオス→着陸」の3段階は、妻のピアノ教師としての振る舞いが、辿り直しの旅を通じてどう変わったかによっても、示されます。先に紹介した冒頭シーンでは、女生徒に対する指示も杓子定規で、「リズムはあなた自身なの」という言葉も空虚に響きます。
嫌味を言う女生徒の母親も不快ですが(笑)、彼女が良いピアノ教師でないのも確かです。それが中盤、食堂の挿話で幽霊の女児にピアノを教える場面では、「自分の好きなリズムで弾いていいのよ」という言葉も生き生きとし、女児の演奏も素晴らしく見違えます。
そのことで、彼女が旅を通じて回復途上にあり、来たるべき着陸面が幸いに満ちたものだろうは予兆されます。とても分かりやすいぶん、説明的だとも言われかねない描写です。でも、女児か幽霊だというモチーフの御蔭で気が散らされて(笑)、気にはなりません。
生徒が弾くピアノという楽器の鳴りが、彼女の通過儀礼の進行段階を示すというのは良いアイディアです。そうした展開はたぶん原作に忠実なのだろうと思いますが、分かりやすいものの、決して押し付けがましさがなく、うまく演出されているな、と思いました。
黒沢作品の本質は昼メロドラマ
思えば、こうした通過儀礼モチーフは、60年代の昼メロや、70年代のピンク映画や日活ロマンポルノに頻出しました。平凡な女が、カオスを経験し、日常に戻る。見たところは以前と何の違いもないが、女は日常を再帰的に輪郭づける能力を獲得している--。
実は、黒沢作品は昼メロなのです。ただし、着陸面が、社会から遠く離れたところに設定される作品が多かった。『CURE』や『カリスマ』などが典型です。形式上はバッドエンドになるので、ホラー作品になります。だから、一見したところ昼メロには見えません。
ところが『岸辺の旅』では、着陸面が、珍しく社会そのものなので、昼メロやピンクや日活ロマンポルノに、あからさまに近い構造です。黒沢監督は初期に日活で『神田川淫乱戦争』(1983年)を撮りましたが、今回は久々にピンク映画的な着陸をしたのです(笑)。
ピンク映画的な着陸とは、雨降って地固まるで、最後がセックス場面で終わるのが定番です。今回もラスト直前がセックス場面でしょ(笑)。主人公の女が、カオス--昼メロの“メロメロ”パート--を経て、元の鞘に戻る。見掛けは以前と同じでも、心は違うって。
昼メロ・パターンを最初に洗練させたのが、今村昌平監督『赤い殺意』(1964年)だと思いますが、それが昼メロを超えて日本映画の王道モチーフになりました。その意味で、“ザ・ジャパニーズムービー”を観たという満足度の高さが『岸辺の旅』にはありました。
不完全な表象からの全体の想像
『岸辺の旅』は俳優の演技も素晴らしかった。夫を演じた浅野忠信が魅力的でした。彼にしかできない演技だったと思います。浅野はもともと、役柄の幅が広い人物ではない。今作でもまさに、浅野忠信そのものでした(笑)。それがなぜよかったのかを申します。
「自分探しをする男」を表現する上で、外見や佇まいが、あからさまにメンヘラに見えてしまえば、演出的には恥ずかしい作品になったはず。人間、外から見た印象はどうあれ、心はいろいろです。内面に相応しい外見や佇まいをしていることなんて実際には稀ですね。
そもそも論から言えば、外見からメンヘラぶりが分かるなら、妻が夫に死なれて動転することが不自然になります。地位も収入もあり、周囲から見て自分の人生に満足していそうに見えることが重要です。その点、浅野はハマリ役で、そういう役作りをしていました。
お気づきのように、幽霊の役なのに浅野はいつもよりふっくらして、肌の色つやもよかった。メンヘラ的な佇まいの対極でした。それを含めて、黒沢監督は、浅野忠信のいつもどおりの演技であれば、反メンヘラ的な描き方ができると考えたのでしょう。成功です。
特に、彼が演じた夫を魅力的だなと思わせたのは、終盤、山村にある農園の家族を訪ね、村人全員を相手に、アインシュタインや宇宙の始まりや終わりについての講義をするところ。本作における浅野忠信の出色の演技です。本当に魅力的な人物だと感じさせました。
自分探しをしていた歯医者が、宇宙について講義をするなんて、意外どころか異様です。なのに、一瞬後にはまったく意外ではないと観客を説得しきってしまう。そういう演技をしていました。これは浅野忠信じゃなければ到底できなかった仕事ではないでしょうか。
妻・瑞希役の深津絵里も良かった。序盤、抜け殻のような人格をうまく演じていました。冒頭のピアノレッスンの場面では、オーラも表情も硬く、生徒である少女の母親が指摘していたようにドン臭い。世界の奏でる調べに対して閉ざされる風情をうまく演じていた。
それが旅の途中、食堂の挿話で、幽霊の少女にピアノレッスンする場面では、表情が一変します。瑞希が見違えて回復しつつあることがうまく表現されていました。そうでなければ、「思いが遂げられる」というラストが、まったく説得的でなくなっていたはずです。
「思いが遂げられる」とは、夫が何者であったのか彼女なりに想像できるようになることです。不完全な表象--切れ切れの輪--から想像を完成させることへの主人公の「思い」が、先に話した黒沢監督ご自身の映画への「思い」とシンクロすることに注意しましょう。