宮台真司の月刊映画時評 第3回
宮台真司の『岸辺の旅』評:映画体験が持つ形式のメタファーとしての黒沢作品
蒼井優の「演技」を超えた「演出」
公開前から妻との対決場面が話題になっていた、優介の不倫相手を演じる蒼井優も注目です。岩井俊二監督『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)に出ていた高校生時代を思えば、いろんな経験を経て、ああいう「演出」ができるようになったのだなと感慨深い。
あれは「演技」を超えた「演出」です。僕は黒沢清監督と個人的に付き合いがありますが、彼はかねて「自分は女が分からないという劣等感がある」と語っておられます。だからラブアフェアー(色ごと)の演技は役者にお任せになるのだともおっしゃっておられました。
それもあって、あのシーンは蒼井優が「演出」したのだと感じました。「最初はジャブで、その後パンチの応酬で……」と、形式を伝えたことを監督自身が新聞の取材で明かしています。形式にどんな内容を盛り込むのかを、蒼井優が決めたということですね。
黒沢監督と以前お話ししたとき、お任せした俳優の演技によって形式に内容が盛りつけられたとき、「そうなるのか!」とシーンの意味が発見される瞬間が、演出の快楽なのだと語っておられた。今回その快楽を味わえたのが、この対決シーンだったろうと思います。
不意にアップにされる彼女の表情が怖く、まさにホラーです。その結果、奇しくも黒沢作品っぽくなりました。他方、新聞には、性行為を生々しく描いたことが黒沢清の新しい挑戦という趣旨が書かれていました。“生々しい”とは思わなかったけど、良い演出でした。
説明しましょう。僕は黒沢作品というと、昼メロ的ということと、監督の恥ずかしがりが刻印されていることを、思い出します。今回はラブシーンを子細に演出して映像化するのが恥ずかしかったわけです。だから、マジガチのベタではなく、絡め手から責めました。
それが、衣服を一枚一枚、という演出になるわけですが(笑)、この過剰な恥ずかしがりぶりこそが、先ほど申し上げた「説明よりも想像を」という黒沢モードと、元来とても相性が良いのです。その意味で、ラスト近くの情事場面はよくできていたと感じました。
『向日葵の丘』と『岸辺の旅』--断片的表象からの想像の完成--
『岸辺の旅』はこのように優れた作品でしたが、この映画との共通性という観点から、二つの作品を紹介してみます。一つは、太田隆文監督『向日葵の丘 1983年・夏』(8月22日公開)です。これには誰が見てもあからさまに『岸辺の旅』と重なる部分があります。
常盤貴子演じる売れないシナリオライターのもとに、故郷で暮らす高校時代のクラスメート(田中美里)から、30年ぶりに連絡があります。難病で余命数ヶ月だと手紙で知らせてきたのです。常盤貴子は悩んだ末に、30年ぶりの帰郷を決意し、映画が始まります。
悩んだのは、高校時代のトラウマゆえでした。仲良し3人組の映画サークルで作品を撮ったものの、父親の理不尽な妨害により映画館で上映することができなかったという出来事。それがきっかけで、3人の間がギクシャクし、ほどなく疎遠になってしまったのです。
難病のクラスメートが密かに抱え持っていた完成版フィルムを、30年前に上映予定だった映画館で上映することになります。『岸辺の旅』と同じ「過去にやり残したことを完遂する」という形式です。かくて「思いを遂げられた」というハッピーエンドになります。
両方に共通して、「思いを遂げる」とは内容的には「過去にやり残したことを、やり切る」というものです。しかし踏み込んで言えば、形式的には「切れ切れの表象から、納得できる想像を完成させる」という、そもそも映画体験自体が持つ形式に関連しています。
同じ時期に「切れ切れの表象から、納得できる想像を完成させる」ことをモチーフとする映画が2本出て来た。偶然かもしれませんが、僕は社会学者なので、もうかすると偶然ではない理由があるかもしれないと考えます。それは、ある種の願望なのかもしれません。
注意深く見てほしいのですが、僕のこうした願望自体が「切れ切れの表象から、納得できる想像を完成させる」というモチーフを反復します。思えば、僕のこうした願望は近年ますます強くなってきています。そのことが、偶然ではない理由に関連しているでしょう。
僕たちの日常は埋めがたい不全感に満ち、数多の理不尽や不条理に宙吊りになったままに死んでいく。だからこそ、できることなら、全ての理不尽で不条理な「表象」の断片がつながって「思いが遂げられる=納得できる想像が完成される」瞬間があってほしい⋯⋯。
そうした理不尽や不条理は「表象」というより、身も蓋もない端的な「事実」でしょう。だからこそ、それらがもっと大きな「事実」の現れ--「表象」--であってほしいと願う。それが人というものの摂理だと思います。事実そういう願望を多くの人が持っているはずです。
身も蓋もない端的な「事実」としての理不尽や不条理がかつてなく「見える化」しつつあるのが先進各国の現在です。その感覚が作家を突き動かしている可能性があると睨んでいます。想像の完成がもはや不可能だからこそ、想像の完成を望むということだと思うのです。
想像を完成したにせよ、想像に対応する大きな「事実」--隠れたる神--が存在するかどうか保証の限りではない。そうした感覚も増進しつつあります。でもこれも同じで、だからこそ、人々は想像の完成を想像するのではないでしょうか。初期ロマン派的な発想です。
そこまで踏み込むかどうかは別にして(笑)、いずれにせよ、僕らがいま何を不可能だと思っているのかということが、「思いを遂げる」ことを主題とした2つの映画の共通性から炙り出されるだろうと思います。それを皆さんが御自身で言葉にしてみてください。
『ナイトクローラー』と『岸辺の旅』--演技を超えた演出が映画を変形--
もう一本、『岸辺の旅』と共通するモチーフを含む最近観た映画が、ダン・ギルロイ監督『ナイトクローラー』(8月22日)です。これはB級っぽい作品ですが、傑作です。しかし、これを御覧になった方は、どこが『岸辺の旅』と共通するのかといぶかるでしょうね。
人脈も学歴もなく、仕事が得られずに困っているルイス(ジェイク・ギレンホール)が、たまたま事故現場に遭遇します。そこで、撮影した衝撃的な映像をテレビ局に売る「ナイトクローラー」=報道パパラッチの姿を目撃したところから、映画はスタートします。
ルイスは警察無線を傍受し、事件や事故の現場に駆けつけては過激な映像を撮り、多額の報酬を得るようになります。やがてテレビ局の要求はエスカレートし、主人公は特ダネを求めるあまりに常軌を逸した行動に走るようになった挙げ句⋯⋯堂々成り上がります。
えっ? 最後に成り上がって終わり? あり得ない。後味のわるいトンデモ映画です(笑)。ジェイク・ギレンホールは役作りで3ヶ月間に12キロ痩せたそうです。鏡を叩き割るというアドリブで手を血まみれにして42針縫う大怪我を負ったというエピソードもあります。
とにかく演技が凄かった。あまりに凄かったので、監督の意図はマスメディアのスキャンダル合戦についての社会批判だったはずなのに、映画全体が、社会批判から、都市伝説的ホラーへと変形してしまった(笑)。これは明らかに意図せざる帰結だと思います。
ギレンホールが演じる主人公がバケモノになり、社会のど真ん中に座っているのに誰も気が付かない--。この都市伝説的ホラー(恐怖)は、監督が当初想定していたものを超えているはず。途中からホラーにすべきだと気づき、演出に切り替えたことはあり得ます。
蒼井優の「演技」を超えた「演出」が『岸辺の旅』を一瞬ホラー映画に変えたのと同様に、ギレンホールの「演技」を超えた「演出」が、映画全体に及ぶ形で強力かつ大規模に展開したものが『ナイトクローラー』なのです。こうした意図せざる帰結も映画の快楽ですよね。
(取材=神谷弘一)
■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter
■公開情報
『岸辺の旅』
テアトル新宿ほかにて公開中
(C)2015「岸辺の旅」製作委員会/ COMME DES CINÉMAS