音楽評論家には「資格」が必要なのか? 『にほんのうた』『音楽評論の一五〇年』『トーキョー・シンコペーション』を読んで

音楽書に見る、批評とメディアという問題系

『トーキョー・シンコペーション』が目指した「文の芸」

 沼野雄司の『トーキョー・シンコペーション』は、音楽之友社の音楽雑誌『レコード芸術』で連載されていたが、完結する前に同誌が休刊してしまった。結果的に、音楽評論とメディアを取り巻く状況の変化を封じ込めることになった1冊である。

 『レコ芸』が創刊したのは1952年。国内で発売される音盤評を中軸に据えた音楽評論誌として長く一線を張ってきたが、昨年の2023年7月号をもって休刊した。その後クラウドファンディングが成功し、ウェブマガジン『レコード芸術ONLINE』として今年9月に復刊することが決まった。

 休刊の原因は見当がつくだろう。CD売上の激減に加えて、YouTubeやサブスクへという変化がクラシックにも及んで広告費が減り、発行部数も半減して採算が取れなくなったのである。読者の9割が50代から90代(!)で高齢化著しかったが、若い世代を取り込む誌面作りができなかったことも休刊の理由にはあったという。

 『トーキョー・シンコペーション』の副題は「音楽表現の現在」、帯には「あたらしい音楽批評のかたち。」とある。本書の特徴を一言でいうと、ユーモラスでかつポップであることを自らに課しつつ、美術や映画、小説など他ジャンルの表現との交錯や衝突を意識的に演出しながら、「文の芸」としての音楽批評を模索したもの、となるだろうか。

 具体例に1章、見てみよう。

 「地図・領土・美術館」と題した第8章は、オーストラリアの作曲家ヨハネス・マリア・シュタウトの「地図は領土にあらず」という作品を取り上げた章だが、タイトルがポーランド生まれの言語学者アルフレッド・コージブスキーから取られているのを手掛かりに、フランスの作家ミシェル・ウエルベックの小説『地図と領土』に飛び、さらに地図と総譜の類似性を指摘して、総譜と美術館が実は同じ制度であると示す。その証拠に、と持ち出されるのがジョン・ケージ「4分33秒」という具合だ。

 「ケージのこの作品はどのような理由で芸術になったのだろうか。答えはひとつしかない――それが「楽譜」、それもとりわけ出版譜になっているからだ」

 話はさらに横滑りを続けて、最後には、イタリアの作曲家ファウスト・ロミテッリの「トラッシュ・TV・トランス」に流れ着く。これはエレキギター1本で演奏される現代音楽作品だが、エフェクターの使い方から奏法まで微に入り細を穿つように指定した楽譜が奇妙に魅力的らしく、何十人ものギタリストが演奏をYouTubeに上げている。(参考:https://www.youtube.com/results?search_query=trush+tv+trance

 「そう、この楽譜は、すぐれて地図のようなのだ」

 ユーモラスでポップな語り口のために著者は、語り手の「わたし」を「自分はハードボイルなシブい中年だと思っているけれども、はたからみたらちょっと滑稽な人」というキャラに設定したという。

 突っ込んだら負けだから突っ込まないが(笑)、現代音楽が専門の音楽学者という堅苦しそうなイメージとは裏腹に、沼野の文章はそもそもポップである。中公新書の『現代音楽史』ですら軽やかだった。

 「ハードボイルド」云々は、付録として挟まっている音楽評論家・舩木篤也との対談での発言だが、この対談は本書の解説にもなっている。

 対談からうかがえるのは、沼野の文体の軽さが、現在の音楽評論家は「資格」を失っているという意識から来ていることだ。「資格」は「教養」とか「文化資本」と言い換えてもいいだろう。芸大大学院まで出ている学者が言うと嫌味に聞こえるが、これは結局、批評がメディアと不可分であるという認識から派生している意識である。情報空間の変化が、情報の量や質、経験の意味を変えてしまい「専門家」の優位性を失わせたというのが「資格がなくなった」の中身であり、「資格」のない批評家、つまりすべての批評家に残された最後の砦は「文の芸」だけだと言うのである。

 「論文と批評というのは、たいていは前者が客観的、後者が主観的といったイメージでとらえられているけれども、最近、そう思わなくなったの。基本的に、求められる客観性や論理性の質に差はない。では何が違うかといえば、やはり文章が違うと」

 かくして音楽学と音楽批評は同床へと還る…のかもしれないが、そのときメディアが「資格」の代替物としたがるのは学者の肩書き、アカデミズムという制度による品質保証であることは想像に難くない。文芸批評などはすでにそうなりつつあるし、品質保証ラベルが貼られていないことがみのへの攻撃の一因になっていた。

 これは皮肉にも、沼野が指摘した、総譜や美術館という制度が芸術性を保証する構造と相似である。とすると、在野が淘汰されがちなのもまた、批評とメディアという問題系の帰結なのかもしれない。

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