SNSで「ネタ化」を繰り返す記憶喪失社会で「マジレス」する 音楽批評の現在地を探る特別対談・後編
「ネタ化」が蔓延る記憶喪失社会の音楽言説
工藤:今は紙雑誌や書籍だけでなくウェブメディアやSNSにも音楽の言説は溢れています。インターネット用語で「ネタ」ってあるじゃないですか。パフォーマティヴにその場を盛り上げるというような意味の。SNSなんかでは毎日のように新しい「ネタ」がバズっていますよね。けれどそうした「ネタ」で終わらないための方途を探らなければいけないとつねづね思っているわけです。
細田:SNSは本当に玉石混交で、中には音盤のレビューやライヴのレポートを精力的に投稿し続けているアカウントもあって、下手な批評家よりも紹介者としてよほど優れている場合もあるし、鋭い着眼点にハッとさせられることもある。これぞ誰もが批評家になれる時代にメディア環境の変化に伴ってアップデートされた音楽批評ということになるのかもしれませんが、一方では構造的な問題点もあります。というのも、ウェブメディアやSNSで発信される情報というのは、基本的に蓄積されることがない。TwitterもFacebookもデザインからして投稿されたテキストはどんどん流されていく。
工藤:そうなんですよ。それこそ「ネタ」で終わる可能性が高い。
細田:ものすごくバズったことで大勢に注目される「ネタ」があったとしても、1週間も経てば誰も覚えていないわけですよね。そして忘れた頃にまた同じことを繰り返す。それこそ「音楽批評は必要か否か」みたいな話題がいい例ですけど、定期的にSNSで話題になるんですよ。すると一家言を持っている人たちが出てきて「音楽批評とは~」と滔々と語り始める。しかし語っている内容は過去の反復なので特に生産的な議論に発展することはない。そうしたことが延々と繰り返されている。
工藤:インターネット上の言説空間は誰もが記憶喪失に陥っている感じはありますよね。記憶を積み重ねることができず、「ネタ」が話題になるたびに振り出しに戻っている。僕はTwitterを始めたのはここ数年なんですが、10年以上やっている人は同じ景色を何回も見ているんじゃないかな。
細田:もちろんSNSをコミュニケーションのためのツールとして使用しているのであれば、記憶喪失状態でもいろいろな人とのやりとりが楽しめるからそれでいいのかもしれない。「ネタ化」するというのは要するにコミュニケーションの道具と化すということですよね。けれどSNSには情報発信・共有・収集ツールとしての側面もあるわけで、その場合は同じ情報が数ヶ月~数年おきに「ネタ化」によって反復され続けていて、それはちょっと不毛に感じます。しかもことはSNSに限った話ではない。ウェブメディアも有料サイトを除くと基本的には広告費で稼いでいるので、とにかく瞬間風速的にPV数を稼ぐことが目的になっている。そのためには「ネタ」として消費されるのが望ましく、しかもできるだけ早く消費されて翌日には別の記事で稼がなければならず、構造的に人々の記憶に残らないようなサイクルを生んでいます。そして忘れた頃に同じような記事がまたバズる。SNSも多くのウェブメディアも「ネタ」を生むことが勝利の法則であるような世界になっているわけですよ。
工藤:そもそもウェブ記事というもの自体が、記憶とあまり結びつかないということもあるでしょうね。結局インターフェースはスマホかパソコンなので、同じ画面を見るわけじゃないですか。それに対して紙の雑誌や書籍は一冊一冊がモノとして違う形をしているので、身体的な側面もあるし、記憶と結びつきやすくなっている。そもそも紙媒体に触れたことがないという若い人はまた違う記憶術を編み出しているのかもしれませんが、実際にスマホよりも紙の方が記憶に関わる脳の領域が活発化するという研究結果もありますからね。経験を個別化していかないと記憶するのは難しい。
細田:例えばライナーノーツは単に音にテキストが付随しているというだけではなくて、アルバムと物理的に紐づいた文字情報であるという点で経験を個別化するのに一役買っていましたよね。今はアルバム自体が形骸化している時代で、それに伴ってライナーノーツの従来の役割は終わりつつありますが、サブスクのアルバム・ページに書いてある解説とか、あるいはオーディオ・コメンタリーといったものは、その意味で従来のライナーノーツを代替することは難しそうです。それで言うと、ちょうど今、東京都現代美術館でクリスチャン・マークレーの個展をやっていますけど、マークレーは音が音以外の視覚文化や文字情報と密接に結びついているところに着目して作品制作を行っているアーティストじゃないですか。それは視覚的な情報が音を喚起するということではありますが、そもそも音が視覚的な情報と一緒に記憶されているということでもあって。それを踏まえると、かつてあったようなライナーノーツを読むという行為は、音楽の解説を頭で理解するだけではなくて、テキストと一緒に音を記憶する行為であったとも言えます。
工藤:そう考えるとやっぱり、いかに「ネタ化」に踊らされずに記憶喪失を回避していくかが大事な気がしますね。もちろん「ネタ」そのものが悪いとは思わないです。きっかけとしては役に立つこともある。最近、TikTokで書籍を紹介している人が書評家になじられて活動を休止しちゃったという事例がありましたけど、いろいろな入り口があっていいと思うんですよ。問題なのは「ネタ」で終わってしまうということであって、だからTikTokで活動する紹介者——BookToker (ブックトッカー) と呼ばれているみたいですが、出版社がこぞって彼らを頼みの綱とするのは危うい。批判されるべきなのはそっちの方じゃないかと。文脈を整理する「マジレス」の作業
工藤:音楽批評という観点からは確実に漏れてしまいますが、僕にとって重要な一冊として『モンド・ミュージック』というディスクガイド本があるんですよ。高校生の頃に古本屋で見つけて買って読んだんですが、良い/悪いという価値判断とは別の観点からレコードを紹介していて。レコードというフォーマットでこういった作品が出ている、ということ自体を面白がるような聴取態度がこの本にはあって、読んだ時にものすごい意識の変化があったんですね。音楽はただひたすら音だけを聴いて楽しむものではないことがわかったというか。この本はシリーズ化されていて第3弾まで出ているんですが、最初に出たのが1995年で、いわゆるDJ文化と並行関係にある。つまりいろいろなレコードを掘っていく中で、異質なものや変なものと出会った時にどう楽しむかという態度がこの本にはあるんです。
細田:LPレコードが登場したのが20世紀半ばなので、1990年代には約半世紀近くの録音物が蓄積していたということもあるでしょうね。その間、例えばジャズであれば「ジャズとして良いか悪いか」という基準をもとに既存のジャズ・ジャーナリズムが語ってきた「正史」があり、そこから漏れるレコードは「無価値」なものとして無視されてきた。そしてそうした「無価値」なレコードが膨大に溜まっていたと。けれど「正史」はあくまでも特定の価値判断をもとに語られているだけであって、基準を変更すればまた別の系譜を辿ることができる。DJ文化におけるレアグルーヴは「踊れるか否か」という基準でジャズ史を解体/再構築し、それまで「無価値」だったレコードに新たな価値を与えたわけですし、モンド・ミュージックもいわば「変か否か」という新たな基準を設けることで、これまで無視されてきた過去のレコードを再発見した。ただ、DJ文化の場合は、テキストと結びついて「正史」を形作ってきたレコードからテキストをいちど剥ぎ取って、身体感覚に委ねることで従来の序列を崩したのに対して、モンド・ミュージックの場合はテキストとレコードの新たな結びつきを生み出したという違いはあるかもしれません。
工藤:DJ文化にしてもモンド・ミュージックにしても、これももう繰り返し言われていることだと思いますが、歴史的文脈を捨象してしまうという点は留意する必要があると思っていて、それこそサンプリング・ネタとして「ネタ化」して終わってしまう可能性があるわけですよ。『モンド・ミュージック』もレコードをある種の「ネタ」として集めただけとも言える。実は今、カンパニー社でムード音楽の本を作っているんですが、ムード音楽って音だけを聴いてすごく良いかというと、別にそうでもないのがほとんどなんですね。9割ぐらいのレコードが駄作というか惰性と妥協で作られている(笑)。けれど良い/悪いと判断するのではなくて、まずは一回面白がってみる。そしてそこで終わらずに、なぜそれらのレコードが作られたのかとか、ムード音楽のレコードが無数に作られたということは一体なんなのかとか、そういった文脈を示していくことがすごく大事だと思うんです。つまり「ネタ」としてレコードを集めた『モンド・ミュージック』に対して、あらためてきちんと文脈を整理していく作業。いわば「ネタ」に対して「マジレス」していくのがカンパニー社の活動なのかもしれませんね(笑)。