異例尽くしのデビュー作『同志少女よ、敵を撃て』はなにが凄いのか? 現役書店員が魅力を解説
本編の冒頭は、セラフィマが狩りをする場面から始まる。母子の鹿の母鹿を撃つ瞬間に生まれた雑念をかき消すように、仕留めた後、隣で母が言ってくれる「これで村のみんなが助かる。とても立派よ」というお決まりの言葉。セラフィマにとって、「誰かが鹿を撃つ必要があるのだ」という実感を覚えるために、その言葉は必要だった。この母子鹿のエピソードは、その直後に起きる悲劇の不吉な予兆になると共に、母子のやりとりは、その後のヒロインの生き様を辿った後に読み返すと、非常に示唆的である。
ヒロイン側の視点だけでなく、時に彼女が敵対する側である、イェーガーを軸にしたドイツ軍側、男性兵士側の思考も描かれているのが本作の興味深いところなのであるが、戦時下という極限状態において、彼ら・彼女たちは、「誰も彼も正当化の術を身につけ」ざるを得なかった。敵を「怪物」と見做し、「怪物と戦うためには、自らも怪物にならねばならない」という思考が、人が人に残虐な行動をとらせる動機となった。それを言い訳にしてはならないと自分を律し続けるセラフィマもまた例外でなく、人を殺すことで得る「スコア」に浮足立つ醜さを垣間見せることもある。ただ狙撃という魔術に魅了された人々が最後に辿りつく「高み」には何があるのか。「女性を守るために戦う」と決めたヒロイン、セラフィマが最後に対峙するものは何なのか。
「狙撃兵は自分の物語を持つ。誰もが……そして相手の物語を理解した者が勝つ」という台詞があるが、ここには戦時下という異常な環境に置かれた、無数の人々の物語がある。その全ての声に耳を澄まそう。想像することが、彼女たちの望んだ平和な時代を生きる私たちの務めなのだ。