天竺=インドではなかった? 研究者・石崎貴比古が明かす、日本人の天竺観の変化

天竺=インドではなかった?

 天竺といえば『西遊記』で三蔵法師がお経を取りに向かう場所であり、天竺とはすなわちインドだ――というのが一般的な理解ではないかと思う。

 ところが日印関係史を専門とし、『日本における天竺認識の歴史的考察』(三元社)を著した石崎貴比古・東京外国語大学特別研究員/常陸國總社宮禰宜は、かつての日本人は「本朝(日本)・震旦(中国)・天竺」という三国で世界が成り立っていると認識しつつも、「天竺=インド」と考えていたわけではなかった(!)と言う。

 また、ポルトガル領だったゴア経由で日本にやってきたイエズス会のフランシスコ・ザビエルらは「天竺人」と呼ばれ、キリスト教(カトリック)は当初日本では「天竺宗」という仏教の一派だと思われていたが、しかし、インド亜大陸から来たはずのザビエルたちは「日本人が言う『天竺』なる場所に行ってみたい」と思っていたという。天竺とはいったいどこだと思われていたのだろうか?

Sindhuが漢字表記の「天竺」になり、日本で「幻想の国」になった

石崎氏は、茨城県石岡市に鎮座する常陸國總社宮の禰宜も務めている

――日本に住む人たちはおおよそいつごろから「天竺」という概念を知っていたのでしょうか。

石崎:6世紀半ば頃の仏教伝来に伴ってだと考えられています。当時は「三国世界観」といって、まず「本朝」(日本)、それから隣にあって直接交流のあった巨大な外国「震旦」(中国)、そして震旦の向こうにある仏教が生まれた国だけれども日本では行ったことのある人がほぼまったくいないがゆえに想像が膨らんだ「天竺」の三要素で世界を理解しており、たとえば朝鮮半島にある国などは「ない」かのように捉えていました。

 インダス川流域の地域を指す言葉Sindhuが、仏教の経典をサンスクリット語から中国語に翻訳した漢訳仏典において「印度」「天竺」「身毒」などと表記されたわけですが、日本ではなぜか「天竺」が中世以降、お坊さんだけでなく貴族や武士、近世には知識人にも好んで特に使われるものになりました。

 中国では別にそういうニュアンスはなかったのに、日本においては「天竺」が「中国の向こうにあるよくわからない、理解しきれない彼方の国」という概念として成長していったのがおもしろいところです。

――「仏教の聖地」以上のイメージですか?

石崎:これは神仏習合にも関係していますが、神社で祀られている神様が「天竺からやってきた」という縁起譚、由緒がいくつも見られるんですね。神道だけで考えると「天竺から来た」は変に感じるかもしれませんが、たとえばそういう広がりも見られます。

「天竺人」ザビエルは、天竺がインドだとは知らなかった

――石崎さんの著書の中では、カトリックを布教にやってきたイエズス会のザビエルたちが日本で当初「天竺人」と呼ばれ、また「デウス」を「大日」などと訳すなどの現地化戦略もあって「仏教の新しい一派」として受容されたにもかかわらず、インド(ゴア)経由でやってきたことに当時の人々が無関心だったという興味深い指摘があります。このあたりのねじれの背景は?

石崎:初期のイエズス会の宣教師たちが「南蛮人」と呼ばれる前に「天竺人」と呼ばれていたことは、日本史研究者には「前近代人の無知ゆえだろう」と思われていました。キリスト教がやってきたとき日本列島にはそういう宗教が存在しなかったがために、当時の人々はもともと自分たちが知っている仏教や神道の枠組みをあてはめて「神様がどうとか言っているから、坊さんか。じゃあ天竺のやつだ」と理解して「天竺人」と呼んだのだろう、と。彼らは見た目もアジア系ではなかったですから、震旦の向こうから来たに違いない、と考えたはずです。ただイエズス会士たちと話をしているうちに「どこから来た?」「インディアだ」と――もちろんおそらくポルトガル語で、ですが――「インディア? 知らないところだな。じゃあ、天竺人じゃないのか」と日本人たちは思った。逆にザビエルたちは「日本人が言っている『天竺』は中国のさらに西にある、仏が生まれた場所らしい。いったいどこだ?」と(笑)。具体的にこういう会話の記録が残っているわけではありませんが、史料を精査していくと日本人側もイエズス会士たちもお互いによくわかっていなかった状況が見えてきます。日本人はインディアがどこか知らなかったし、イエズス会士たちが仏教の由来や展開を理解するのはずっと後の話です。インド亜大陸にヨーロッパ勢力が進出する16世紀にはもう仏教は滅んだあとで、ムガル帝国はイスラーム、南インドはヒンドゥー教が支配的だった。日本に来るまでにイエズス会士たちが経由してきたシャムやビルマのあたりには仏教があったけれども、それが日本の仏教とルーツが同じ宗教だとはわからなかった。

――近世には東南アジア、シャム(タイ)が天竺と同一視される場合もあったそうですが、これも不思議です。17世紀に作られた地図「山本氏図」では、インド亜大陸には「なんばん」、タイ付近には「てんぢく」と書かれていたと。

同書のカバーに描かれているのが「山本氏図」

石崎:これも歴史学者によって「近世人の無知による誤解」だと思われていた部分なのですが、そもそも日本人にとって天竺とインドはイコールではなかった。そして南蛮貿易をしていた時代には、現在で言う東南アジアに日本人町があって山田長政らが活躍していました。山田長政たちは「中国ではないさらに先の地域」に行っていたわけです。だからそこは「天竺」なんだ――と、こういう認識だと推察されます。ただ天竺が中国よりも南側にイメージされる場合と、西側にイメージされる場合の2つがあって、徐々に南アジア、西アジア、シルクロードに関する知識が整理されてくると、もともと天竺と呼んでいた場所はインド亜大陸の北のほうにあると日本人もわかってくる。それで一時期を過ぎるとシャムのあたりに天竺と書かれることはなくなっていきます。

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