GEZAN マヒトが語る、本に見出した可能性 「文明に対する反抗のスタンスでもある」

GEZAN マヒトが語る、本の可能性

 オルタナティブロックバンドGEZANのフロントマンとして、完全フリーフェス「全感覚祭」の主催、自主レーベル「十三月」を運営、映画出演など、ボーダレスな活動で注目を集めるマヒトゥ・ザ・ピーポー。2019年には初小説『銀河で一番静かな革命』(幻冬舎)を発表し、今年11月には初エッセイ集『ひかりぼっち』(イースト・プレス)を刊行。2018年から2年にわたり綴った文章を1冊にまとめたという本作には、白か黒かで語ることができない曖昧さを肯定する優しさと、「幸せになりたい」というシンプルな願いが込められている。

 リアルサウンドブックでは、マヒトの文筆家としての一面をクロースアップ。圧倒的な観察眼で紡がれる言葉、文章を書くことに見出した可能性、好きな作家についてなど、大いに語ってもらった(編集部)【インタビューの最後にサイン本&チェキプレゼント企画の詳細を掲載】

文章に宿る温度感

ーー今回のエッセイ集『ひかりぼっち』もそうですが、マヒトさんの文章には「温度」を感じます。小説『銀河で一番静かな革命』の文章には一冊を通して「冷ややかさ」や「湿り気」を感じるんですけど、『ひかりぼっち』からは「温もり」を感じました。そういった「文字に宿る温度感」みたいなものは意図して書いていますか?

マヒトゥ・ザ・ピーポー(以下、マヒト):そこまで意識してはなかったですが、どうなんだろう、根がいい奴なんじゃないですかね(笑)。いい奴ではないかもしれないけど、悪い奴ではないかなっていう気がします。

 ちょっと話がズレるけど、生き物に対してリスペクトがあるんです。例えばコロナの時期、ZOOMでミーティングすることが一般的になって、この先AIがもっと発展していくならば、人と人とのコミュニケーションがどんどん変化していくんだろうなと。そういう技術が加速すればするほど、生き物が持つ「温度感」や「手触り」の代えがたい価値が自ずと高まっていくと思っています。

 縄文時代や弥生時代、食べ物がたくさん採れたらみんなでシェアすることは当たり前だったと思うんですね。そういった意味でGEZANで主催している投げ銭フェス「全感覚祭」も真新しい祭りというよりは、プリミティブな祭りだと思っています。貨幣経済が誕生してからの時間よりも、その何十倍も何百倍もプリミティブな「人間の生活」があるわけで、それと同じような意味で「温度感」というものの、非代替性をこれから痛感していくんだろうなと思う。そのことは自分の中で大切にしていきたい部分なので、それが文字の上にも乗っているんだろうなと思います。

ーーフリー入場、フリーフードなど、「全感覚祭」がプリミティブな祭りに回帰しているという印象はあります。

マヒト:コロナの時期にライブハウスで活動できなかったり、「全感覚祭」が開催できなかったり、宴や祭りが消えてしまうんではないか、この先どうなってしまうんだろうという思いがあったんですが、偶然、人が焚き火を囲み音楽を鳴らして祭りをしている場面を描いた古い壁画を見たとき、ここ最近何かのブームで音楽を真ん中においたパーティーが始まったわけではなく、人類はDNAレベルで宴や祭りを求め続けてきたんだと感じて、宴や祭りの形自体はそう簡単には変わらないんだと思いました。逆に言うと、人と人が出会い、音を中心に据えて、時間を共有することの信頼を感じられたから、別に1年休んでも大丈夫だって思えた。いろんな制限をかけて意地でライブすることもできたと思うんですけど、そんな簡単に音楽とか祭りは消えないんだなと思えたのは、自分にとっていい気づきでした。

ーータイトルの『ひかりぼっち』にもあるように今回「光」をテーマにエッセイを書いた理由を教えてください。

マヒト:眩しいだけじゃない曖昧な光や、白と黒のグラデーション、その曖昧さを曖昧なまま扱うこと、曖昧なものに輪郭を与えることを大事にしているんです。たとえば、本に出てくるフジロックの日は大切な日だったけど、それ以外の364日、363日もずっと時間が続いている。365日のほとんどの日がそういう曖昧な日でできているんだけど、そういう曖昧なものもちゃんと「光」と呼べる自分でありたいなというのが、この本を書いているときの心境でした。

 小説家の町田康さんが『銀河で一番静かな革命』を読んで「マヒト君は『視力』が良い」と言ってくれたんですけど、自分自身いろいろなものを目で見て、画として認識しているんです。「聴覚」が先行している人もいるし、五感の何を1番手がかりにしているかは人それぞれだと思うんですけど、俺は自分の深層心理や、相手の気持ちとかを「色」で感じることが多いので、「光」は自分の中のベースの話だなと思っています。

ーー「視覚」が自分の中の強みとしてある?

マヒト:強みというよりは「光」がベースにある感覚。普段から「光」のことはすごく気にしていて、物理的な部屋の明るさや、太陽の光の強さということだけではなくて、こうやって会話している時にもそれは感じる。ムードとしての明るさとか暗さは、光の明暗ではないけれど、明るい暗いっていう言葉が置かれている理由は、そこに心理的な影だったり、気持ちがあったりするから。だからそれも「光」の話で、それが自分のベースになっているんだろうなと思っています。

絶対的に幸せな人も絶対的に不幸な人もいない

ーー本作は「幸せ」への言及が多く、「幸せとは?」という問いが根底にある作品だなと思いました。マヒトさんにとっての「幸せ」を教えてください。

マヒト:「幸せ」が何なのかは分からないけど、幸せになりたいですよね(笑)。もう、生きているだけで褒めて欲しい。毎日、膝や肩を誰かに撫でてほしいし、こんな世の中で真っ当に生き残っているだけでも、すごいことで、表彰もんだなと思うんです。

ーー今の時代、「何かを達成しなくてはいけない」という焦燥感をみんな抱えていて、だけどそれをみんなができるわけじゃない。そういった価値観やジレンマがある気がします。

マヒト:いわゆる個性だったり、その人しか持っていないセンスとか、才能という言葉に集約されがちで、別に特別な何かを持っていなくてもいいはずなのに、それがないと幸せになれないという強迫観念があると思うんです。InstagramとかSNSの更新って、人に自分の生活を見せて「いいね」を貰っているようで、本当は「自分が今日一日ちゃんと生きて幸せだったんだ」と納得させるための鏡なんだと思っています。「私は今日もちゃんと生きることができた」という証明。別に誰かにしてもらわなくても、自分で存在を証明することはできるはずなんだけど、自らの幸せを他人に証明してもらおうとSNS上で世界を作り込む。それってすごく異常なことだと思っていて、自分で自分の幸せを肯定できない構造が、社会のベースにある。常に何かに焦ってたり、ちょっとだけ不安だったり、このコロナの時期で混乱していたり。これは自分自身に向けて言っている節もあるけれど、「幸せになってもいいんだ」ということを何が邪魔しているんだろうといつも考えている。誰かと比べることでしか、この当たり前の言葉を言えない、そのいびつさはなんだろうといつも考えていますね。歌っていても文章を書いていても。

 もちろんダイヤモンドに価値があるのはわかるけど、グリコのおまけについてくるガラスの指輪だって、自分がそれを綺麗だと感じたらそれでいいわけで。結局、誰にどう言われようが、自分自身で納得するしかないという結論があって、例えば人が死ぬとき、その人が幸せだったか幸せじゃなかったかということを多数決で「幸せだったと思う人手挙げてー! はいじゃあ、幸せじゃなかったと思う人が多いんで、彼は幸せじゃなかったです」ってどうでもいいわけですよね。

 最後息を引き取るとき、どんな人生だったかを振り返ると、良いことも悪いこともあったなって曖昧な結論になると思うんですけど、やっぱり自分自身でその最後のジャッジをする。「いろいろあったけどいい人生だった」。もしくは「いろいろあったけどダメな人生だった」と。紙一重だけど最後の瞬間どちらの言葉を選べるかで、だいぶ違った人生になると思います。自分が優しいなって思えるのは、嘘かもしれないし、強がりかもしれないけど、そういう瀬戸際みたいなとき、今この時代もキツいこともいっぱいで、いい時代だとは思ってないけど、俺はこの時代を「いい時代」と呼ぶ側に立っていたい。だって今日もちゃんと生活しているし。そのことは常に思っていますね。

 だからあえて幸せを定義するとしたら「幸せだって言い切ること」。絶対的に幸せな人も絶対的に不幸な人もいなくて、自分自身をどういう言葉で定義したいかという一つの輪郭の話。自分はパンクスです、自分は物書きです、ライターですとか、自分の肩書について語ることと「幸せ」を定義することは同じレベルの話だと思うんです。本質は、この生活、この時間をなんと呼びたいかということ。自分はパンクスですと名乗るみたいに、これが幸せですって呼んであげてもいい。

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