荏開津広が選ぶ、要約/フェイクニュースへの抵抗となる2冊:『ナウシカ考』『別冊文藝 ケンドリック・ラマー』

荏開津広『ナウシカ考』『ケンドリック・ラマー』評
『ナウシカ考 風の谷の黙示録』

 物事を要約して発信すること、あるいはフェイクニュースの発信は、それぞれ別の場所で始まっているのだろうが、どちらもナルシズムと繋がっていく。アカデミシャンから“普通の日本人”と称するまでの無数の矮小なナルキッソスたちは、鏡を見て自惚れるばかりで何かを言っているようで何も言わず、政治的には全体主義にすら結果的に与する。

 このことは実は誰もが例外ではなく、私たち全員が泥の泉に沈んでいくかのようだ。そのような思いも頭によぎる。同時に、考えられ書かれたある程度以上に長い言葉の連なりに接しその意味を考えていくことは、そうしたナルシズム傾向へのカウンターになると感じる。

 さて、『王と天皇』(1988年)や『岡本太郎の見た日本』(2007年)など、赤坂憲雄氏の著作に少しでも親しむ方ならば、氏が“あらためて”、”ここではとりあえず“、そして”それにしても“といった言葉と共に場面を転換していく中に、その著作で示された考えの輪郭が繰り返して何回も描き直されていく経験をしたことがあるだろう。

 昨年発売された『ナウシカ考 風の谷の黙示録』も、そのように、日本に住んでいる私たちほぼ全員がきっと知っている宮崎駿が創り上げた”風の谷“の風景を、迂回し周回し様々な角度から捉え直し、それぞれを行き来し叙述する。”西域幻想“をたぐり寄せることから始まり、私たちを”腐海“に、そして”黙示録“へと分け入って連れていってくれる。本の一つのクライマックスは、3分の2ほど読み進めたところで、私たちが赤坂氏の筆を通して出くわす”深く宮崎駿的なテーマ“だろうか。

 例えば、マンガだからこそ”もっとも豊かに複雑にして精妙に“描かれた森は実は腐海で、それが“ときの移ろいとともに継起的に転がされ”語られ、そのイメージが本書で様々な方向に、例えば日本における”天皇と非農業民のよじれた関係“にまで届き、その”テーマ“に関連して引用されている宮崎駿氏の言葉に、私のあまり馴染みのないマンガやアニメの発想の核のようなものさえ感じてしまう。

『別冊文藝 ケンドリック・ラマー』

 私はアニメやマンガに興味を持つ余裕がなかったので、この本が取り組むマンガ版『風の谷のナウシカ』を未読だったが、きっと近いうちに読むだろう。多分、アニメもまた見るだろう。本書はぜひ、2020年のうちに読むことをお勧めしたい。

 もう一つ、自分の専門や教養から離れていても読みたくなる本や著者の名前が出てくるのも、読書好きとして楽しいところだ。例えばここではピエール・クラストルやニコラス・ローズ、もしくは堤中納言物語やグリム童話。

 それにしても本書の終わり方はやっぱり格好が良いと思う。ああそうなのか!と、この本を手に取って読み始めた時の疑問の一つが、そこで明らかになる。世界の構造をどうだと見せびらかす閉鎖的な世界における優越感の限界を知っている大人なら、きっとこの未来への拡がりを持った結末のつけ方も気に入るのではないだろうか。

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