本は読まずに積んでおくだけでいい? 『積読こそが完全な読書術である』永田希インタビュー

『積読こそが完全な読書術である』インタビュー

 『積読こそが完全な読書術である』というチャレンジングなタイトルの本が刊行された。著者は書評家の永田希氏。「買ったけど読まずに積んである本」にはどこか後ろめたさを感じがちだが、著者はむしろ積極的に積めばいいのだ、と言う。

 大量の情報が流通する現代社会においては、放っておいても広い意味での未読・積読が溜まっていく。そんな情報の濁流に抗って生きるためにこそ、主体的・積極的に本を積んで自らの砦、拠り所とするべし――一聴すると不可思議な主張をするこの本だが、なぜ永田氏はそんな考えに至ったのか? 本を溜め込みすぎてゴミ屋敷状態のなか暮らしたこともあるという著者のバックグラウンドを掘り下げながら、積読と罪悪感の関係に迫ってみよう。(飯田一史)

読める本は全部読みたいけれど、本は多すぎる

――「書評家が積読についての本を書いた」と言っても「どんな書評家なんだ?」と思う方も多いでしょうから、ふだんどんなジャンルの本について執筆しているのかから教えていただけますか?

永田:「書いている本人はまじめなんだけど変な本」を主に紹介しています。ジャンルで言えばいろいろになってしまうのですが、オカルトについての学術書、思弁小説、幻想文学、非主流のアメコミ、バンドデシネなど日米以外の国のマンガ的な作品、最近は環境問題に新しい切り口で言及している本や、気候変動や遺伝子操作を盛り込んだSFなども文芸的な観点というよりは人文科学的な観点から取り上げています。アラン・ムーア、ダナ・ハラウェイ、ティモシー・モートン、藤原辰史、パオロ・バチガルピといった個別の書き手に横軸を通せないか模索しているというか。

 僕はノイズミュージック、インダストリアルミュージックやビジュアル系が好きで、本の趣味もそういうところとつながっています。もともとは書評家になりたかったのではなくて「会社員をやりながら音楽をやる」人間になりたくて、ノイズ的なDJユニットをやったりしていました。なので僕を音楽の人だと認識している友人もいます。……というのは表向きの言い方で、本当はすぐにでも死にたいと思い続けて享楽的に生きてきたんだけれども、死ぬに死にきれずこの年になってしまった、というのが実際のところです。さいきんはそういう自分の背景を踏まえたうえで、死にたいまま生き続けてしまった人間が生きていくにはどうしたらいいのか、とかを考えています。

――オカルトと積読は何か関係あるんですか?

永田:オカルトにもいろいろあるんですが、僕が興味があるのは主に神秘思想や民間信仰です。日本でオカルト、魔術を紹介してきた人は澁澤達彦をはじめみんな蔵書家、言いかえると大量に積んできた人たちであると言えます。そもそも魔術書も魔方陣も「書かれたもの」であり、魔術と関係するものでもっとも縁が深いアイテムが本ではないでしょうか。僕の本でも終盤、オカルトすれすれのことを言っている箇所が少しだけあるのですが……まあそれは読んでのお楽しみということで。

――話を戻しますが、永田さんが書評家になった経緯は?

永田:以前、「本が好き!」というそのまんまな名前の本好き向けのメディアを運用している会社に勤めていて、そのメディアのオフィシャルブログの担当者になったんです。そこで書き手の個性を打ち出すことが推奨されたので、遠慮なくダークな本、エキセントリックな本を扱っていたんです。その会社を退職するときに独立して、「本が好き!」とは別の「Book News」というサイトの運営者になりました。「書評家」を名乗り始めたのは、ノイズやインダストリアルミュージック、神秘主義やアートと広く扱った『新・音楽の解読』という本を紹介したご縁で、著者の能勢伊勢雄さんに「君は書評家を名乗ってもいいよ」と言われたのがきっかけです。

――もともと本は好きだった?

永田:たぶん好きなんでしょうけど、あんまり自覚はしていないんです。幸いなことに家にたくさん本がある家庭に育ち、小さいころから「目につく活字は全部読みたい」という人間でした。レンタルビデオ屋さんに行って借りもしないのに端から端までパッケージを手に取ってあらすじを読んでいく、みたいなこともやっていたし、本屋さんに行けば長時間立ち読みをする(足が疲れたら座って読んだりもしていました)し、学校にいても休み時間は図書室にずっといて気になる本をごっそりまとめて持ってきて読んでいたし、常にたくさん本を持ち歩くから年中肩が痛い……というのが「普通」だと思っていたんですね。家でもいろんな全集をあちこち拾い読みをしたり、百科事典や図鑑をネットサーフィンのように読み散らかしていました。でもそういうのはどうも「普通」じゃない、と学生のころにようやく気が付きました。その頃から漠然と、「読める本は全部読みたいと思っていたけど、本って多すぎない?」ということがわかってきました。それと同時に、書物が持つ権威性みたいなものに対する抵抗感みたいなものも意識するようになってきました。本を読みたくない人の気持ちがわかるというか、本をたくさん読んでいるのが偉いみたいな考えに対する嫌悪感というか。

「読んでない本について語りたい」人より「積んでる本どうしよう?」という人の方が多い

――そういうことが積読についての本を書こうという動機につながっているんでしょうか。この本の企画の成立経緯は?

永田:書評家を名乗り始める前から、友だちと話していてずっと気になっていたんですよね。自分が読んだ本のことを話しても相手は読んでいないことが多いし、逆もしかり。しかも話題の本や古典だったら「ああ、持ってるけど読んでないんだよね。積んでる」という話になりがちだな、と。

 ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』という本が一時期話題になったけれど、あの本は「読んでない本について語る」ことについては書いている一方、「積んでいる」ことについては正面切っては書いていない。でも世の中には「読んでいない本について語りたい」人より「積んじゃってる本、どうしよう?」と思っている人の方が多いんじゃないかと。

――たしかに。

永田:だから積読についての本があったらおもしろいはずだと思って、まずは自費出版で『サイコパスの読書術』という本を出しまして。それを土台に半分くらい書き直して、今回イースト・プレスから刊行することになりました。プロの編集者さんにしっかり手を入れてもらうと本当に読みやすくなりますね。驚きました。

――永田さんの独特の「積読」観はいつごろ形成されたんですか? 小さいころからですか?

永田:いや、僕も昔は「やましいもの」と思っていたんですよ(笑)。やましいけど、しかしそのやましさ自体に疑問を抱えていました。でも書評家として「紹介するから献本してください」とあちこちの版元にお願いしていたら、段ボール箱でまとめて送ってきてくれる方もいて、そうなるとどうがんばっても読み切れない。それで「みんなどうしてるんだろう? いや、どうせみんな積読してるんだから開き直った者勝ちじゃない?」と思ったのがきっかけですね。

――「開き直った者勝ち」(笑)。

永田:まあ、勝ち負けと言うとだいぶ語弊がありますね。研究者や物書きのプロになればなるほど、ある意味ちゃんと読まないわけです。専門分野によって違いはあるんでしょうけど、大量にインプットして定期的にアウトプットしなければならないプロの物書きは、趣味でじっくり読むようには、仕事で読む本を読む時間をとれないし、専門書になるほど、そのような速読に適した書き方を採用していくんですね。それを効率的に読むのがプロの読み方なわけです。自分の研究や執筆に関係あるところ以外は読み飛ばすとか、裏取りするためだけにざっと読む、といった読み方を当たり前にしている。いわゆる「ちゃんと読んでいない」ことに対する抵抗はプロフェッショナルになるほど減っていく。これはさまざまな「読書術」を説く本に共通して語られていることです。バイヤールはそういう斜め読みまで「読んでない」という扱いにしていて「いやいや、読んではいるよね」と思いました。プロの読み方を「読んでいない」とワルぶって見せるのがバイヤールの面白いところです。

 そもそも一冊の本を読んですべての内容をずっと覚えていることは不可能です。つまり「完全な読書は存在しない」――ということは逆に言えば、一度読んだ本も含めてすべての本は、積んである未読の本と変わりがない。だって、完全に「読み切れる」「すべてを忘れずに理解する」ことは絶対にないから。つまり原理的にすべての本は積読本である、という論立てをしたのが僕の積読論です。

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