「傷こそが輝きなんだと伝えたい」 三上ちさこ、fra-foa解散から活動復帰までシンガー人生を振り返る

三上ちさこ、シンガー人生を振り返る

 東北大学のメンバーで結成された最初のバンド fra-foaで2000年にメジャーデビューを果たし、今年シンガーソングライターとして24年のキャリアを迎える三上ちさこ。彼女は昨年、2005年のfra-foa解散以降18年ぶりとなる新バンド sayurasを結成。根岸孝旨(Ba)、西川進(Gt)、平里修一(Dr)という近年のライブを支えてきた手練れのメンバーと共にソリッドなバンドサウンドを響かせ、新たな全盛期を迎えている。

 彼女のキャリアは決して順風満帆ではなかったが、その都度彼女を支えてきたのは、ファンであり、授かった子供であり、現在のプロデューサー 保本真吾であり……あらゆる新しい出会いが三上のピュアな音楽衝動を駆り立ててきた。それによって少しずつ開けてきた心が、今の三上とsayurasの鳴らす音楽性に直結している。

 リアルサウンドでは、sayurasの1st EP『Adult Organized Rock』リリース、開催目前の『sayurasレコ発ワンマンライブ 「Adult Organized Rock」』を記念して、2回連続のインタビューを行った。前編となる本稿では、三上ちさこのキャリアを辿る。音楽との出会い、家庭環境やルーツ、今なお特別な輝きを放つバンド fra-foaの結成から、出産を経て以降のマインドの変化に至るまで。過去も全て引き連れ、新たな光を手にした三上ちさこの人生を語ってもらった。(信太卓実)

【MV】ナイン -nine- / sayuras (Official Music Video)

「得られなかった愛情を満たすために、オリジナル曲を書き始めた」

ーーこのインタビューではsayuras結成までの三上さんのキャリアを振り返りながら、音楽性の変遷や、三上さんの人柄を改めて探っていこうと思います。まずは、三上さんが最初に音楽に目覚めたきっかけから教えていただけますか。

三上ちさこ(以下、三上):もともとはピアノをやってたんですよね。小さい頃は、ドレスを着てピアノを弾いているお姫様のような人に憧れていて。あとはピンク・レディーも大好きでした。

ーーそれは何歳くらいの頃ですか。 

三上:3歳とか、本当に小さい時。ケイちゃんが大好きだったんです。『ザ・ベストテン』(TBS系)とかも毎週録画して観ていたし、ラジオも『全国歌謡ベストテン』(文化放送)みたいな番組をよく聴いていて。好きな曲はテープレコーダーを近づけながら、音を録って聴いたりしていました。

ーーすでに幼少期から歌への興味があったと。

三上:はい。幼心ながら、最初に曲を作ったのも幼稚園の頃で、めっちゃアイドルみたいな感じの曲でした(笑)。でもステージに立って歌う人に憧れがある反面、ものすごく人見知りだったんですよ。授業中も先生に指されて発言するだけで、耳が真っ赤になって答えられなくなるくらいでしたし、友達ともほとんど関わらず、部屋の端っこで一人で本を読んでるような子だったので。親が「なんとか手に職をつけさせなければ」と心配して、合唱とピアノと習字に通っていました。

ーー初めて今のようなスタイルで歌ったのはいつでしたか。

三上:高校の時に学園祭で初めて弾き語りで歌いました。その後、大学に入学したらナンパされて軽音サークルに入ったんですけど(笑)、私のことを何も知らないはずなのに、いきなり「キーボード弾かない?」って言われて。最初はThe BeatlesとかThe Rolling Stonesのコピーバンドで鍵盤を弾いてました。でも、その年の学園祭で、先輩バンドの女性ボーカルの人が、革ジャンに編みタイツでハードロックみたいな曲を歌ってて、それにすごいカルチャーショックを受けて。こんなにデカい声で歌ったら気持ちいいだろうなと。それまでは優しい歌い方しかしていなかったんですけど、自分もそういう風に歌いたくなって、半年間YAMAHAのボイトレに通って、お腹から声を出すことを教えてもらったんです。

 その頃から、マライア・キャリーとかホイットニー・ヒューストンとかアレサ・フランクリンとか、洋楽にもだんだん興味を持つようになりました。地元・仙台のペデストリアンデッキで、コピーバンドでマライア・キャリーを歌ってたら、たまたまスタジオを経営している事務所の社長が観に来ていて、「夢は何だ?」って聞かれて。「その辺の小さいクラブとかで歌うのが夢です」って答えたら、「その夢の小ささがいい!」って気に入られて、一緒にやることになりました。「いつでもスタジオ使っていいよ」と言ってもらったので、衝動に任せて、真夜中に原チャリ乗ってスタジオまで行って、夜通し歌って、疲れ果ててそのまま床で寝るみたいな生活をしてて(笑)。いつでも好きなだけ歌っていいっていうのがすごく幸せだったんです。

ーーその頃、まだオリジナル曲はなかったんですか。

三上:なかったですね。オリジナル曲を書き始めたのは大学を卒業してからなんですよ。当時の社長からオリジナル曲もあった方がいいよって言われて。でも、何書けばいいんだろうって思った時に、たまたまCocco「カウントダウン」のMVを観て衝撃を受けて、すぐタワーレコードに買いに行ったんです。ちょうどNirvanaとかRadioheadも聴くようになった時期だったのと、もともと太宰治に対して「自分と同じ人がいる!」って思うくらい影響を受けていたので、そこが全部リンクしていきました。

ーー歌詞はどういうものがとっかかりになったんでしょう?

三上:私が小学校1年生の時、兄が白血病で亡くなったんですけど、ずっと入院生活をしてたから母は兄につきっきりで、私は親戚の家に行って、一人で過ごすことも多かったんです。それもあって母親の愛情にすごく飢えてたんですけど、Coccoがきっかけになって、辛かったことや抑え込んでいたこと、良い子のふりをしてたことも全部、歌で解放していいんだって教えてもらって。反抗期もあまりなかったので、そういう感情を出せる手段を知らなかったんですけど、全部バーって歌詞に書き始めたのが制作の最初ですね。

 私って、すごく“やきもち焼き”だったんですよ。兄が亡くなった後も、母が他の赤ちゃんを見て「可愛いね」って言うだけで、自分なんかいらない存在なんだって思い込んで、一人で部屋で泣いてるみたいな子供だったんで。得られなかった愛情を満たすために、オリジナル曲を書き始めた感じです。

fra-foa / 月と砂漠(Official Music Video)

ーーfra-foaの歌詞の認められない孤独に通ずるエピソードですね。

三上:はい。大学受験の頃とかって、勉強しているだけで自分の存在価値が認められてるような気がしていたんですけど、大学に入ってからは目的もないし、褒められることもなくなったので 、「何をすればいいんだろう?」って自堕落な日々を過ごしていて。法学部だったんですけど、「将来のために人脈を作っとこう」みたいな感じが当時は肌に合わなくて、学部の友達が一人もいなかったんです。もっと純粋に知り合ったり、繋がったりしたいのになって思っていたから。でも軽音サークルは楽しかったですね。さっき言った、最初に組んだThe Beatlesとかのコピーバンドが、ナチュラルハイキングダム、略してNHKっていう名前だったんです(笑)。

ーー(笑)。

三上:その頃は、週末にバンドメンバーの家に入り浸って、お菓子とか酒を買い込んで、朝までずーっとギター弾いたりしながら、その辺に雑魚寝するみたいな生活をしてました。アホですけど、音楽にまみれてましたね。

fra-foa結成の経緯や周辺バンドとの意外な交流

ーーそこからfra-foaはどのように結成されるんでしょうか?

三上:大学卒業してオリジナル曲を書こうって思った時に、お世話になっていた事務所に一緒にいたのが、ギターのターボー(高橋誠二)だったんです。ターボーが、ベースの平塚(学)くんとドラムの佐々木(康治)くんを誘ってくれて、fra-foaをやることになりました。もともと佐々木くんは同じ大学のStrangerっていう、プログレに傾倒した軽音サークルにいたんですよ。私はFeeling Freeっていうサークルだったんですけど、隣の棟だったからそんなに喋ったことはなくて。平塚くんは同じFeeling Freeだったんですけど、1年後輩で、よりポップなバンドをやっていて。ターボーもFeeling Freeの先輩で、以前から知っていました。ギターの音、好きでしたね。

ーー当時はどういうバンドにしようと思ってたんですか。

三上:私の中では、完全にNirvanaとRadioheadだと思ってました。他のメンバーはどうかわかんないけど。平塚くんはポップな曲が好きだし、佐々木くんはプログレが好きで、それぞれ違っていたので。一番近いのがターボーだったかな。レッチリ(Red Hot Chili Peppers)とかスマパン(The Smashing Pumpkins)とかSoundgardenが好きだったと思います。

ーー当時はグランジやブリットポップなど90年代のオルタナを継承したバンドが多かったと思いますが、周囲との交流ってありましたか。

三上:確かに多かったですけど、全く絡んでなかったですね。今でこそバンド同士の横の繋がりを大切にするみたいな感じですけど、当時はあまりそういう感じがなくて。ART-SCHOOLと学園祭で一緒になったことがあったんですけど、(木下)理樹くんなんて部屋の隅で体育座りしてたし(笑)、お互い全く喋らなかったです。でも、54-71だけはすごく仲良くさせてもらっていました。

ーーへえ!

三上:Bingoくんとめちゃくちゃ気が合ったんですよ。お互い、“自分自身と宇宙”っていう二大テーマにしか興味がなくて、生きてること/死んでることへの関心とか、それがピンポイントでハマったので。よく文通とかもしてましたね。喫茶店で5時間くらいかけて、50枚くらい手紙を書いたり(笑)。それも別に相手に対する言葉っていうわけでもなく、「今飲んでるカプチーノの泡一粒の中に銀河系があって、その中で……」みたいな話を永遠に書いてました。

ーー今の三上さんの曲でも、内面性が宇宙に繋がってるような感覚って強いじゃないですか。それはどうしてなんですか。

三上:自分のことが認められなくて、嫌いで、愛せなくて、それでも認められたいし愛されたかったから……ですかね。fra-foaの頃は人に興味がなくて、まだ世間に目を向ける余裕がなかったっていうのと、そのままの自分に価値があると思っていなかったから「どんな部分を出せば人に認められるんだろう?」って内側を探ることで、同じような人と共鳴できたらいいなと思っていました。歌うことで、辛うじて自分に価値が生まれるかもしれない……っていうぐらい、自己評価が低くて。「愛されたいから愛そう」っていう発想は全くなかったんですよね。それが今では180度変わりましたけど。

fra-foa / 青白い月(Official Music Video)

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