『プロセカ』の影響で価値観に変化? 人間とVOCALOIDが共に歌う曲は“水と油”からスタンダードとなりうるか
VOCALOIDリスナーは今や多岐に渡る。それはひとえに多彩なクロスメディア展開の成果でもあるが、その代表例として欠かせないのはアプリゲーム『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク』(以下、『プロセカ』)の存在だ。本ゲームによる新規リスナーの増加でカルチャー全体が再度活性化し、現在のような文化全体の地盤が再構築されたことは大勢の知るところだろう。
そんな『プロセカ』をVOCALOIDの入口とした人々にとっては、当然だがこのコンテンツで触れるボカロ曲がスタンダードともなる。カルチャー内で生まれる楽曲の傾向や不文律はミクロに見ていくと枚挙に暇がない。しかしニコニコ動画を発端とするボカロ曲を愛聴する人々と大きく異なる認識のひとつが“人間とVOCALOIDによるデュエット曲”の印象の差だ。『プロセカ』にオリジナル楽曲として提供されるボカロ曲は、キャラクターを演じる声優とVOCALOIDのデュエット形式が通例となる。そのため“人間とVOCALOIDが共に歌う曲”を違和感なく受け入れるリスナーが大半であり、事実その中から「シネマ」(Ayase)、「ジャックポットサッドガール」(syudou)、「バグ」(かいりきベア)といった、VOCALOIDのみの歌唱版に比べ声優との歌唱版が再生数を伸ばす楽曲も複数見受けられる。
VOCALOID発売から約20年、今や100万曲を超えるボカロ曲の中でも、人間とVOCALOIDのデュエットによるオリジナル曲は驚くほどにその母数が少ないため、この現象に違和を感じる人もいるだろう。みきとP本人と鏡音リン歌唱の「ロキ」が最大のヒット曲であり、よりカルチャーに精通するリスナーであれば、直近で話題となったARuFa&初音ミクの歌唱によるピノキオピー「匿名M」や、ピコン本人と初音ミク歌唱の「ガランド」、banvox本人と初音ミクによる「Let Me Take You」といった曲を知る人もいるかもしれない。しかし、これらも長いカルチャーの歴史に点在する作品群といった印象だ。
なぜ“人間とVOCALOIDによるデュエット曲”は今日までスタンダードと成り得ていないのか。まずひとつクリエイターサイドの視点として、制作の手間がかかりすぎることが挙げられる。加えて自分の歌唱技量に満足していないため、あるいは自分の望む歌唱技量に見合う人物と出会えないために音声合成ソフトでの創作を選択する作り手がそもそも多い点も理由のひとつだろう。今でこそボカロP出身シンガーの存在はある程度の認知度や地位を獲得しているが、カルチャー全体を見渡した際に“歌えるボカロP”の存在自体は母数として多くない。つまり創作環境の大前提となるハードルを多数越え、それでもなお人の声と音声合成ソフトを交えた曲を作る場合、それ相応の理由や根拠があるからこそだと考えられる。
一方リスナーサイドには、以前であればソフトそのものの開発技術が未発達であるゆえに、人の声と音声合成ソフトを交えた曲は音質の差異が耳につくという“聴き辛さ”もあっただろう。だが現在CeVIO AIをはじめ、肉声と大差ない表現が可能な音声合成ソフトが登場してなお楽曲が増えていないということは、それだけが理由ではないかもしれない。