【浜田麻里 40周年インタビュー】第2弾:制作拠点をアメリカへ移した意図とは? 現地での刺激的なセッション、ヒットシングル誕生などを振り返る
初の海外ライブ以上に緊張!? 手練れのプレイヤーとの一発録音
――そして引き続きリリースされたアルバムも、チャート1位を獲る結果になりましたけど、シングルヒットを踏まえると、想定していた通りだったのではないですか?
浜田:そうですね。大きなタイアップに沿う曲が完成した時点で、もちろん想定してました。
――では、1位であると知ったときの実感はどんなものだったんですか?
浜田:その瞬間はみんなで「やったー!」って盛り上がったのを覚えています。ただ、カネボウさんのCMは、そんなにオンエアされたのかなって思うぐらい、私はほとんどテレビで観た記憶がないんですよね。だからたぶん、あれだけ売れたのは、歌番組に出演したからだと思います。「Heart And Soul」から『歌のトップテン』(テレビ東京系)とか『ザ・ベストテン』(TBS系)に構わず出演したのは、ロック系とされてるアーティストはまだ出ていない時代で、きっと私が最初だと思ったからなんですよね。あの頃って、みんな出演するのを拒否していたので。その後は一気に変わりましたけどね。別に自分が変えたと言うつもりはないですが(笑)、ロック系のバンドでも、歌番組に出ることが売り上げや曲の認知度においてプラスになるっていうのは周知されて、音楽業界のプロモーションの流れが変わったのは確かです。今の私は、それとは全然違う考えを持っていますが……。時代ですね。
――「Heart and Soul」の頃からの流れがあっての判断だったんですね。
浜田:そうですね。「Heart and Soul」について言うと、当時オリンピック放送で独自のテーマ曲を流すという取り組みをしていたのはNHKだけで。その後は民放でも同じような流れが一気に作られました。だからいつも第一号って感じの冒険を重ねてきたシンガー人生だなって思うんですよ。その後も続いたスポーツ番組のテーマソングもほぼ初代だったと思います。それを、いろんな年代の方が聴いてくれたことで一気に広がりました。ただ、忘れもしないんですけど、ビクターは『Return to Myself』をそこまで売れると思っていなかったので、プレス数もさほど多くなくて、在庫が少なかったんですよ。
――レコード会社の想定以上に売れてしまった、ということなんですね。
浜田:そうですね。シングルの『Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。』も発売からかなり経ってからの1位でしたけど、それも在庫切れがかなり影響したと聞いています(笑)。
――その後、1989年12月にはバラード集『Sincerely』がリリースされました。「In The Precious Age」をはじめとする既発曲の新録バージョンも収録されていますね。
浜田:そうですね。『Sincerely』はかなり力を入れているシリーズの一つで……といっても、まだ2枚しか出てないですけど(笑)、やっとバラードアルバムを出せるんだなとは思いました。傍から見たら、だんだん幅が広がってきたように見えるかもしれませんが、元々の私の素養はバラードシンガーに近かったんですよね。だからデビューのときから、いつでも作ろうと思えば作れたと思います。
――作りたい思いはずっとあったと。
浜田:いつかはそういうこともできるように、イメージを広げていきたいとは思っていました。ただ、「Return to Myself」がヒットした後ですから、ビジネス的に考えれば、同じような系統の曲で行くのがセオリーだと思うんですけど、そこは私の根っから天邪鬼な性格で(笑)、全然違うタイプの曲で行きたいみたいな思いがいつもあるんですよね。『Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。』の次にリリースしたシングルが『Open Your Heart』(1989年11月)だったという流れもあり、あのタイミングで『Sincerely』を出そうということになりました。
――「Open Your Heart」を作ったのがきっかけだったんですか?
浜田:どっちが先かははっきり覚えてないんですけど、それに近いと思いますね。「Return to Myself」の次はバラードで驚いてもらいたい、みたいな。
――通常のスタジオアルバムとしては『COLORS』が1990年9月に発表されますが、デビュー時から所属していたビクターからの最後の作品にもなりました。いわゆる大ヒット作に続くものとして、それまでとは異なる臨み方もあったのではないかと推察しますが。
浜田:いや、浮かれて調子に乗るようなところは元々ない性格なんですよ。同じくグレッグ・エドワードとアメリカで制作しました。日本から同行するスタッフも増えて、以前のような寂しさを感じることもなくなりましたね。ありがたいことにタイアップもたくさんいただけたので、そういう意味で『COLORS』が好きとおっしゃるファンの人たちは多いですね。ポップ系に属するアルバムの代表作として。
――その『COLORS』は、レコーディングメンバーが海外勢であるのは変わっていませんが、作家陣がまた日本のミュージシャンだけになりましたよね。それはたまたまなんですか?
浜田:そういえば、そうですね。大槻さんとのコンビでヒット作が出始めたので、作曲が大槻さん中心になったというのは引き続きあったと思いますけど。ただ私の中では、日本人だから、アメリカ人だから、という分け方はないんですよ。アメリカの方からの曲提供もあったと記憶してますが、残念ながら私がボツにしたということも多かったです。滞在期間の関係やアメリカ人の気質的な関係もあって、アメリカではデモ制作がはかどらない、という側面はあったかと思いますが。
――労力をかける割に合わなかった、ということですよね。
浜田:そう。だから、日本でよりしっかりとデモを作るようになりました。時間もお金もすごくかけて。普通に何の疑問もなく、そのまま商品として出せるぐらいのクオリティのデモテープで、それをもう1回、アメリカのミュージシャンを起用してブラッシュアップする。贅沢なレコーディングをさせていただいてました。
――今に繋がる作り方ですよね。
浜田:まぁ、そうですけど、今はより個人と個人でやってますし、もっと合理的です。一番時間をかけるのは自分一人の時間なんですよ。あの頃はデモの制作であっても、スタッフが明け方までスタジオで待っているような環境でしたから。私はそれが本当に苦手でした。今思うと、申し訳ないぐらいの贅沢をさせていただきました。でもその甲斐あって、音楽に関しては自分の納得度の高いものになってきたと思います。
――『COLORS』は「Heaven Knows」や「Nostalgia」が収録されているアルバムですね。
浜田:はい。「Nostalgia」が好きっていう人は多いですね。『パリ・ダカールラリー』(テレビ朝日系)のテーマソングとして使用されていて。イントロの厚いストリングスがこの曲のポイントだと考え、アメリカではかなりそこにこだわりました。
――この曲を、バンドメンバーとしてお馴染みの増崎孝司さんが作曲されたというのもポイントかなと思います。
浜田:そうですね。そこから“増崎マイナーコード曲”っていうシリーズができていくんです。増崎氏はその後も何度もメジャー曲にトライしようするんですけど、私からは「マイナーコード必須で」と必ずリクエストしてます(笑)。
――『COLORS』のレコーディングを終えた後のタイミングだったと思いますが、1990年8月2日にロサンゼルスのThe Roxy Theatreでライブを行っていますよね。初の海外公演でもありました。
浜田:そうです。でも、今になると、何だったのかなって感じがします(笑)。
――そんなこと言わないでくださいよ(笑)。
浜田:あはは。もちろん緊張もしたし、大事なライブだったんですけど、その直前にラジオの企画で、LAでライブ録音というのをやったんです。ジェフ・ポーカロとスティーヴ・ルカサー、。コーラスはローズマリー・バトラー、ベースはジョン・ピアスだったかな。そういった本当に巧い人たちとの一発録りで、歌ももちろん同時の一発録音です。それがFMで放送されるということでめちゃくちゃ緊張したので、そっちの印象のほうが強いんですよ。「Voice of Minds」とか「Return to Myself」とか、自分の過去曲をやったんですけど、そのために歌詞も英語で書き直して。今思うと恥ずかしい発音なんですけどね(笑)。その直後に、いつもツアーに参加している日本人のバンドメンバーが来て、1本ライブやりましょうみたいな流れでした。だから、そのライブでも書き直した英語で歌ったんですよね。
――そういった一連の経験は、後の海外向けアルバム『Introducing…Mari Hamada』(1993〜1994年)に繋がっていくんですか?
浜田:うーん……中身的にはまったく別の視野なので。プロデューサーも変わりましたし、発音も本格的にやり直しましたし、もっと実践的です。初の海外公演は、お上りさんとまでは言わないですけど、日本からパッとバンドメンバーがやって来て、パっとやって帰るみたいなものに近かったので(笑)。楽しかったですけどね。
――海外でライブをやることが今よりはるかに難しい時代だったと思いますが、日本のヘヴィメタルシーンでいうと、多くのアーティストが海外進出を一つの目標として捉えていた時期でもありました。だから、浜田麻里もついに海外でやっていくのか、といった見方もされたと思うんですね。
浜田:すごく大仰に捉えていた人もいましたね。もちろん、自分の望みじゃなかったと言ったら嘘で、なるべく広い世界で歌い、聴いていただきたい、リリースしたいという思いはありましたけど、日本での活動を捨てて海外に賭けるみたいなニュアンスでは全然なかったんです。そのあたりはファンの方ですら、いまだに思い違いをされているのかなと感じることはあります。その後のライブ休止期間に関しても、海外活動への取り組みがその原因みたいな言い方をされていましたし、スタッフ含めて、そう言い訳するしかない状況というのはあったんだと思います。
――ええ。その辺りも含めて、次回またお聞かせいただきたいと思います。
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