小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード13 梶子 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード13

 村井邦彦と吉田俊宏による小説『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』エピソード13では、川添浩史が第2回アヅマカブキの欧米ツアーにて岩元梶子と出会う。ともに配偶者のある立場だったが、公演を通じて二人は絆を深めていく。(編集部)

※メイン写真:「ネルヴィの公園劇場で開かれるアヅマカブキの舞台がテレビ中継される」と伝えるイタリアのラジオ・テレビ専門紙(1955年8月)

【エピソード12までのあらすじ】

 川添浩史(本名は紫郎。後に浩史と名乗る)は1934年、21歳でパリに渡り、モンパルナスのカフェを拠点に交遊関係を広げていった。日本人留学生だけでなく、故郷を追われてパリに来た報道写真家ロバート・キャパのような外国人とも親交を結んだ。

 やがて世界は戦争の時代に突入する。浩史が想いを寄せていた富士子とキャパの恋人ゲルダは、カメラマンとして赴いたスペイン内戦の戦地で若い命を散らした。浩史はパリで知り合ったピアニストの原智恵子と結婚し、第2次大戦の前に帰国する。

 戦後、浩史は日本舞踊の「アヅマカブキ」を率いてアメリカ公演を成功させ、国際文化交流プロデューサーとしての地歩を固めていく。

 世界的な写真家になったキャパが1954年に来日し、浩史と旧交を温める。再会の喜びも束の間、キャパは戦場で地雷を踏んで帰らぬ人となった。
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梶子#1

 第2回アヅマカブキの一行35人を乗せた旅客機は1955年7月27日に羽田を発ち、香港、バンコク、カルカッタ(コルカタ)、デリーなどを経由して、30日に北イタリアのミラノ空港に到着した。
 今回はヨーロッパ各国を回った後、全米で公演することになっている。翌年4月まで9カ月間に及ぶ欧米ツアーの始まりだ。
 一行がタラップを降りてくる。先頭は吾妻徳穂、続いて夫の藤間万三哉。ギラギラと照りつける太陽がまぶしいのか、徳穂は目を細めてうつむいている。記者団が一斉にシャッターを切った。
「あなたが川添さん? 川添浩史さんですね」
 川添浩史が汗をふきながら空港のロビーに入ってくると、ベージュの開襟シャツを着た小柄な東洋人が日本語で声をかけてきた。豊かな黒髪にちらほらと白いものが混じっている。自分と同年配だろうと浩史は思った。
「ええ、川添です」
「村上と申します。大使館の使いで、お約束のナレーターをお連れしました」
 村上の後ろに隠れるように立っていた若い女性がぺこりとお辞儀をして、浩史の目をじっと見つめた。心の奥を探るように。
 アヅマカブキの幕あいにイタリア語の解説を付けようと考えた浩史は、ローマの日本大使館にナレーターを紹介してほしいとリクエストを出していた。条件は2つ。イタリア語が堪能で、しかも日本文化に造詣の深い人物。できれば女性。
「岩元と申します。岩元梶子です」
 若い女性が抑揚のない声であいさつした。つるりとした白い顔の中で、2つの瞳だけが黒く輝いている。
「ど、どうも。川添です」
 梶子はまだ20代半ばぐらいだろう。一回り以上も若い相手なのに、いつになく緊張している自分に気づき、浩史は頭をかいた。
「川添さん、岩元君は二科展に入選したこともある気鋭の彫刻家でしてね。戦後の早い時期からイタリアに留学して、エミリオ・グレコに師事していました。グレコは今やイタリア現代彫刻の旗手になっていますが、戦前は私と机を並べて彫刻のイロハから勉強していたんですよ…。ああ、失礼。私とグレコの関係はさておき、彼女のイタリア語は完璧です。教養も申し分ない。今回のお役目にぴったりだと思います」
「それは心強い。どうぞ、よろしくお願いします」
 浩史が右手を差し出し、握手を交わした。梶子の手はどきりとするほど冷たかったが、ノースリーブの白いワンピースから突き出した二の腕は妙になまめかしかった。
「ところで川添さん、私はその昔、カワゾエと名乗る面白い男に会ったことがあります」
 村上が言った。
「ほお、あまり多い名字ではありませんが」
 浩史は何かを思い出そうとするように目を細め、村上の顔をしげしげと眺めた。
「その男とはマルセイユ行きの船で知り合いました。ちょっとした事件がありましてね。その後、ジェノヴァ行きの列車でも一緒になり、彼はカンヌで降りました。以来、一度も会っていません。1934年の夏だから、もう20年余り前の話になりますが、今もはっきりと覚えています。彼はシローと名乗った。年齢は私と変わらなかった。ひょっとして、あなたのご兄弟ではありませんか」
 浩史は目を見開いたまま「あ、あ、あの…」と声にならない声を出した。
「ぼ、僕がそのシロー、川添紫郎だよ。すると君はあのときの村上…」
「アキラ。明るいと書いて村上明」
「そうだ、覚えているよ。忘れるわけがない。そういえばイタリアで彫刻を勉強すると言っていたね。ああ、それでエミリオ・グレコと机を並べたってわけか…」
「うん、パレルモの美術学校でね。そうか、君があの足の速い川添君か」
 2人は固く抱き合い、再会を心から喜んだ。
 浩史は1年前に再会し、間もなく逝ってしまったロバート・キャパを思い出していた。ああ、懐かしい男、村上。富士子を知っている男、村上明。何という巡り合わせだろう。君はアンドレのように急にいなくなったりしないでくれよ…。なぜか涙があふれてきた。
 梶子は2人の中年男の抱擁をぼんやりと眺めていた。

アヅマカブキのヨーロッパ公演でナレーターを務める梶子(1955年、「キャンティの30年」より)

 アヅマカブキのツアーは1955年8月3日、ジェノヴァ近郊のネルヴィで開かれる恒例のダンスフェスティバルに参加する形で初日を迎えた。会場はネルヴィ公園の野外劇場だ。
 ステージの背後には地中海が広がり、舞台下のオーケストラボックスの周りにはアジサイが咲き乱れている。最新型の日本舞踊が見られるとあって、欧米各国から訪れたダンスファンが客席に詰めかけ、会場は開演前から華やかなムードに包まれていた。
「シニョーリ・エ・シニョーレ…」
 紅袴を胸高に締め、平安時代の女官か神社の巫女のような姿をした女性がマイクの前に現れ、イタリア語で語り始めた。浩史が日本から用意してきた装束は、梶子の身体に不思議なくらいぴったりと合い、着付けを手伝った徳穂が驚いていた。
 梶子の長い黒髪が潮風に揺れている。地中海の青と紅袴の赤のコントラストが、ぞっとするほど美しかった。
「静寂(しじま)を破ってトンと鳴る足踏みは人生の調べをつたえ、雪のように白い足袋は清らかな人々の心を意味します。日本舞踊は神々への奉納としての起源を持ち、この浄められた舞台はそのまま祭壇であり、この芸術はわれわれの祖先から贈られたものであります」(※)
 浩史は客席の最後列で腕組みをして梶子のナレーションに聴き入った。
「見事なナレーションだね。本番までほとんど時間がなかったのに、格調の高いイタリア語に訳している。それに大きなノートを手にしているけど、さっきから一度も目を落としていない。すべて暗記しているんだな」
 隣の村上が言った。
「ありがとう、良い人を紹介してくれたね。それにしても君が大使館の嘱託になっていたとは、まさに天の配剤だな」
 浩史が舞台に真っすぐ顔を向けたまま言った。
「グレコが取り持ってくれた縁だよ」
「グレコと君は彫刻学校のクラスメイトだったんだよな?」
「最初はライバル同士だった。しかし戦争が始まって、俺は帰国したんだ。戦後、またイタリアに戻ったんだが、もう彫刻家としては歴然とした差がついていてね。もともとの才能が違ったんだな。俺は大使館に拾われるまで、しばらくグレコの助手のようなことをやっていたんだ」
「そこに梶子さんがやってきた」
「そういうことさ。グレコは岩元君にぞっこんでね。彼女をモデルに幾つも作品を残している」 
 周囲の観客は梶子のナレーションに魅了されている。時折、どっと笑い声が上がるのは、演目の概要をイタリアの風俗になぞらえ、分かりやすく解説している証拠だ。
「グレコは僕らと同年配だろう? 不惑の男が若い女性に惑わされたってことか」
「ははは、中年男だって恋はするさ。しかし結局、グレコの思いは届かなかった。彼女はグレコ門下の若い彫刻家と結婚したんだ」
「へえ、若い彫刻家ねえ」
「うん。俺も知っている男だ。典型的なイタリア男って感じのやつでね。彼女より幾つか年下だったな。娘さんが1人いる」
「もう子どもまでいるのか」
「ああ、まだ1歳…。いや、もうじき2歳になるのかな」
「へえ。幸せの絶頂というやつだな」
 浩史がそう言うと、村上は顔を曇らせた。
「どうした?」
「い、いや、何でもないよ」
 本編はこれからだというのに、客席から盛大な拍手が巻き起こった。立ち上がって歓声を送る客に向かって、梶子が深々と頭を下げている。ナレーション作戦は大成功のようだ。

自らモデルとなったエミリオ・グレコの彫刻作品の前でポーズをとる梶子(若尾龍平氏提供)

 終演後、浩史と村上はホテルのバーで乾杯した。梶子は出演者たちの宴会に合流している。
「川添君、例の富士子さんは気の毒だったな」
「し、知っているのか」
「帰国したとき、神保町で彼女の兄貴に偶然会ったんだよ。スペインで亡くなったそうだね。旧華族のボンボンが彼女にご執心で、執事に後を追わせて結婚を迫ったらしい。執拗にね。富士子がカメラに夢中になったのは、そのボンボンから逃れるためだった、だからそのボンボンに殺されたようなものだと兄貴は怒っていたよ」
 村上はロックアイスを指で回しながら言った。
「執事か。船で彼女を見張っていた痩せぎすの男はその執事だったんだな」
「恐らくそうだろう。ところで君は富士子さんとはどういう関係だったんだ」
「何もなかったよ」
「何も? 本当か?」
 浩史はピアニストと結婚して息子が2人いると打ち明けた。村上も原智恵子の名は知っていた。彼は今も独身だという。
「ところで岩元君をどう思う?」
 村上はグラスを置き、浩史の顔をのぞき込むようにして訊いた。
「どう思うって?」
「背が高くて、西洋人のような目をした富士子さんとはずいぶんタイプが違うが…」
 そこに梶子がやってきた。顔が赤い。少し酔っているようだ。
「富士子さんってどなた?」
 彼女は浩史と村上の間に座った。
「遠い昔に亡くなったカメラマンの卵さ」
 浩史がそう言って、冷たい水の入ったコップを梶子に差し出した。
「あら、私も飲むわ」
 梶子は栗色の髪のバーテンダーに「彼と同じものを」とイタリア語で注文した。
「遠い昔に死んでしまっても、こうして2人の男性に思い出話をしてもらえるなんて、よほど素敵な女性だったのね。どうせ私が死んだって…」
「おいおい、岩元君。また…」
 村上が困ったような顔をして、浩史に助けを求めた。
「梶子さん、今日のナレーションは素晴らしかった。あなたには才能がある。その才能を生かせば、きっと何でもできると思いますよ」
 梶子の肩にそっと手を置いて、浩史が言った。彼女の背中は小刻みに震えていた。

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