小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード13 梶子 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード13

梶子#2

 アヅマカブキはネルヴィで1週間公演した後、フランスとの国境に近いサンレモに移動して2日間の舞台を終えた。梶子のナレーションは日を追うごとに練度が高まり、徳穂をはじめ、出演者たちの評判も上々だった。
 これから一行はイタリアを離れ、コペンハーゲン、ストックホルムを巡演する。寸暇を惜しんで観光に訪れたサンレモのロシア正教会の前で、梶子を送る即席の会が催された。
「梶子さん、もうミラノに戻られるのよね。これでお別れだなんて残念だわ。あなたにずっとナレーションをやっていただけたらいいのだけど、そういうわけにもいきませんものね」
 徳穂が名残惜しそうに言った。
「そうおっしゃっていただいて光栄です」
 梶子はしばらくうつむいていたが、すっと顔を上げ、独特の低い声で話し始めた。
「最初は不安もありましたが、だんだん舞台に上がるのが楽しくなりました。良い経験をさせていただき、ありがとうございました。これでお別れだなんて、私、本当に寂しくて…。皆さん、この後も長い旅になるでしょうが、公演の成功をお祈りいたしております」
 梶子のあいさつが終わるのを待ち構えていたように、教会の鐘が鳴り始めた。
浩史は徳穂たちの後ろに立ち、黙って彼女を見つめていた。この1週間余りで梶子の肌は小麦色に焼けていたが、寂しげな目は初めて会ったときから変わっていないと彼は思った。
「岩元君、そろそろ時間だ」
 村上に促され、梶子は駅に向かった。
 村上が振り返って「駅まで一緒に来ないのか」と目顔で訊いている。浩史は右手を上げて「いいんだ、行ってくれ」という意味の合図を送った。梶子はずっと下を向いて歩き、一度も振り向かなかった。

 コペンハーゲンとストックホルムの公演を無事に終え、一行は英国のエディンバラに到着した。エディンバラ国際演劇祭に参加する形で公演するのだが、同時に開かれているエディンバラ国際映画祭で大映の「雨月物語」(溝口健二監督)がゴールデン・ローレル賞に輝き、アヅマカブキ一行も記念上映会に参加することになった。
 大映の代表として訪英している大映専務で作家の川口松太郎が会場に姿を現した。
「先生、お久しぶりです。こんな異国の地でお会いするなんて、不思議なご縁ですわね」
 徳穂が声をかけた。川口とは旧知の仲だという。
「ご紹介いたしますわ。川添さんとおっしゃるの。あの後藤象二郎さんのお孫さんよ」
「川口と申します。後藤猛太郎氏の息子さんですな」
「は、はじめまして。川添浩史と申します。父をご存じで?」
「私が社会に出たころには亡くなられていましたが、新橋や赤坂、神楽坂あたりの古株芸者から何度も武勇伝を聞かされましたよ。豪快なお方だったそうで…。そういえば日活の初代社長もお父上でしたな」
「は、はあ。恐縮です。『雨月物語』は川口先生が依田義賢さんと共同で脚色されたそうですね」
 浩史はパンフレットを繰りながら訊いた。
「ええ。ご存じの通り、原作は江戸後期に上田秋成が書いた怪異小説ですが、その『雨月物語』から『浅茅が宿』と『蛇性の婬』の2編を抜き出し、さらにモーパッサンの短編小説を取り入れて…。脚色といいますか、かなり大胆に翻案したわけです。大胆にね。わははは。どうぞ、ゆっくりとご覧ください」
 浩史は徳穂と並んで鑑賞した。世は戦国。琵琶湖のほとりに住む貧しい陶工が陶器を売りさばくため妻子を村に残して町に出た。そこで妖艶な女と出会い、女の屋敷で饗応を受ける。やがて彼は悦楽の日々から抜け出せなくなり…。
 浩史はだんだん恐ろしくなってきた。妻子を残して村を出て、女に溺れる男の姿が自分と重なってくるのだ。京マチ子演じる妖艶な女は、梶子その人に見えてくる。ああ、うれしくもあり、恐ろしくもある。この不思議な感情は何なのだろうか。
「いつの世も男はみんな似たり寄ったりね。泣くのはいつも女なのよ」
 終演後、徳穂がぽつりと言った。浩史は返す言葉がなく、うなるしかなかった。

「コペンハーゲンとストックホルムで痛感しました。イタリア公演のときのようにナレーションが必要です。観客の反応がまるで違いましたからね」
 エディンバラのエンパイア・パレス・シアターでリハーサルを終えた後、楽屋に呼び出された浩史は、徳穂ら出演者たちの訴えに耳を傾けていた。
「なんだ、まるで労使交渉だな。分かった、分かった。じゃあ、僕がやるよ。僕の英語はイギリス式じゃないけど、ちゃんと通じるからね」
 浩史が中小企業の社長のような顔をして言った。
「言葉が通じればいいってものじゃありませんよ。いえ、川添さんの英語ではダメとか、そういう意味ではなくて…。簡単に言ってしまえば、みんなが望んでいるのは梶子さんなんです。彼女は英語もペラペラですしね」
「今から彼女を呼べ、と?」
「はい。もし可能であれば」
 まさに渡りに船ではないか。小躍りしたくなるような喜びと言い知れぬ不安が浩史の胸の中で交錯した。「雨月物語」の京マチ子の妖艶な姿態が脳裏にフラッシュバックし、その顔がすぐさま梶子の白い顔に置き換わった。
 
「もしもし、村上君か。先日はありがとう。助かったよ」
 浩史は翌朝、ローマの日本大使館に勤める村上を呼び出した。梶子の連絡先を聞くチャンスを逃したからだった。
「どういたしまして。あの依頼を引き受けなければ、君との奇跡的な再会もなかったわけだからな。運命のいたずらってやつは面白いね。これだから人間はやめられない」
「忙しいところ申し訳ないんだが、君に頼みがあるんだ」
「何でも言ってくれ。俺に遠慮は無用だ」
 浩史は英国のエディンバラとロンドン公演のナレーションを梶子に任せたい、本来は在英邦人に頼むのが筋かもしれないが、出演者全員の強い希望であると畳みかけた。村上は「任せておけ」と快活に笑い、ビザの取得や飛行機の手配に便宜を図っておく、ロンドンの日本大使館にも仁義を切っておくから心配するなと言った。
 梶子は夕方にはビザを取り、空路でエディンバラに急行した。浩史はバラの花束を持って彼女を出迎えた。

 9月10日までエディンバラで公演したアヅマカブキは12日、ロイヤル・オペラ・ハウスでロンドン公演の初日を迎えた。管弦楽団による「君が代」と「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」の演奏で幕を開け、続いて登場した梶子によるウイットに富んだ英語のナレーションに観客は喝さいを送った。
 彼女の完璧な英語力に舌を巻いた浩史が、どうやって身につけたのかと尋ねると、梶子はぽつりぽつりと昔話を始めた。
 初等科から通った聖心女学院は同級生の過半数が在日外国人で、授業は英語で受けた。疎開先では、あまりにも言葉が流暢だからという理由で「アメリカのスパイ」と噂され、本当に嫌だったと真顔で語った。卒業後は進駐軍に接収されたアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)で米軍将校の秘書をしていたが、自分に秘書の仕事は向いていないと悟り、日本を飛び出してイタリアにやってきたという。
 浩史は彼女の話に耳を傾けながら、どこか自分に似ていると親近感を覚えた。
 ロンドン滞在中に2人の仲は急接近していったが、あっと言う間に10月1日の最終日を迎えた。この後、アヅマカブキはオランダ、ベルギー、ドイツを巡演する。すでに徳穂が各大使館を通じて現地のナレーターを確保しているから、梶子を引き留める合理的な理由はなくなってしまった。ミラノに戻る朝、彼女は泣いた。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「音楽シーン分析」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる