小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード13 梶子 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード13

梶子#3

 1955年11月初旬、ミラノ。梶子は自宅にいる。1週間前に夫が兵役から帰ってきた。彼は妻が日本人と連れ立って旅をしたことが気にくわない。浮気をしているのではないかと疑い、何度も梶子に詰め寄った。
 今のイタリア人は戦前の日本人より封建的で、男尊女卑の古い考えから脱していない…。梶子はそう思った。髪をつかんで引き倒され、腰を蹴られても必死に耐えてきたが、平手で思い切り顔を打たれ、ついに悲鳴を上げてしまった。唇から血がしたたり落ちている。
 もうすぐ2歳になる娘のマルタが泣きだした。夫が怒鳴りつけると、泣き声に火がついた。隣に住んでいる夫の母親が飛んできて、金切り声で梶子をなじった。彼女は耳をふさいでうずくまることしかできなかった。

 翌朝、浩史から国際電話がかかってきた。パリ公演のナレーションをやってくれないか、ホテルを取ってある、パリに来てほしい、と。地獄で仏に会ったよう…とはこのことだ。
梶子は電話口で狂喜した。積み木で遊んでいたマルタが、珍しく笑っている母を見上げてきょとんとしている。幸い、夫は出かけていた。
 梶子は決心した。今夜だ、と。彼女は夕方になるまで、ずっとマルタを抱きしめていた。涙はとっくに涸れてしまった。
 外は冷たい雨が降っている。梶子は寝息をたてているマルタにそっとキスをして、窓から庭に飛び降りた。怪しまれないように、大きな荷物は持っていない。
 街灯の明かりで鈍く光る舗道を全力で走り、タクシーを拾ってミラノ中央駅に急いだ。パリ行きの寝台列車の時刻は調べてある。早く、早く。もう夫に気づかれているかもしれない。
 列車に乗り込み、とりあえず人心地がついた。しかし、もし夫が捜索願を出したら…。チップは多めにはずんだが、あのタクシー運転手が「駅で降ろした」と証言したら…。二度と見たくない夫の顔と、最愛の娘の顔が浮かんでは消える。
 早く国境を越えたい。捕まったら夫のもとに連れ戻されるに違いない。国境の駅まであと何駅だろう。車窓に打ちつける雨粒を見つめながら、いつしか梶子はうつらうつらと寝てしまった。ここ数日、ほとんど眠れなかったのだ。

「お休みのところ申し訳ございません。パスポートを拝見いたします」
 梶子はハッと目を覚まして身構えた。口ひげを生やした太った男がにこやかに「すみません」と再びイタリア語で言った。税関吏のようだ。
 梶子は男にパスポートを見せた。日本を出る際にGHQに発行してもらった仮パスポートだ。「オキュパイド・ジャパン」と記され、マッカーサーのサインがある。名義は独身時代の「カジコ・イワモト」のままだ。
「グラッツェ、シニョリーナ」
 あっさりと去っていった税関吏の背中をぼんやりと見送り、梶子はフーッと息を吐いた。肺にたまった空気と一緒に、夫にまつわる記憶をすべて吐き出そうとするかのように。

パリの老舗カフェ「フーケ」。シャンゼリゼ通りとジョルジュ・サンク通りの交差点にある

 翌朝、リヨン駅に到着した。11月のパリはもう寒い。軽装で飛び出してきた梶子は手に息を吐きかけながらタクシーに乗った。行き先はフーケ。シャンゼリゼ通りとジョルジュ・サンク通りの交差点にある老舗のカフェだ。
「戦争が終わったらフーケで会おう」
 昨日、浩史は電話でそう言った。
「映画のセリフね。イングリッド・バーグマンとシャルル・ボワイエの『凱旋門』だったかしら。シャンゼリゼ通り側か、ジョルジュ・サンク通り側か。そう尋ねるシーンがあったわ」
「僕はどっちで待っていると思う?」
「ジョルジュ・サンクね」
「ご名答」
 梶子は電話のやり取りを反すうした。きょとんと自分を見上げていたマルタの顔を思い出し、また涙がこみ上げてきた。
 フーケのトレードマークになっている赤いひさしが見えてきた。
「ここで降りるわ。どうもありがとう」
 ジョルジュ・サンク通り沿いのテラス席に浩史の姿を見つけた梶子は、涙をぬぐって彼に駆け寄った。
 浩史が立ち上がる。やはりバラの花束を持っている。梶子はバラの垣根を突き破る勢いで彼の胸に飛び込み、そのまましばらく泣き続けた。
 最愛の娘を手放してしまった悲しみと、夫との「戦争」が終わった安堵のどちらが大きいのか、梶子には分からなかった。今はただ泣くことしかできない。涸れていたはずの涙はまだたくさん残っていた。
「ずいぶん薄着で来たんだな。体が冷え切っているじゃないか」
 浩史が梶子を強く抱きしめながら言った。
「こうしていると温かいわ。生き返った気がする」
 梶子は自分の言葉を聞いてハッとした。今まで懸命に守り抜いてきた良妻も賢母もミラノに捨ててきた。私は一度死んだようなものだ。もう一度、生きられるだろうか。生き返れるだろうか。
 テラスの前の歩道で、中年男の弾くアコーディオンに合わせて若い女が歌い始めた。
「ああ、パルレ・モア・ダムール。僕の好きな歌だ」
「あなたの好きな歌?」
「シャンソンだよ。邦題は『聞かせてよ愛の言葉を』。好きな歌というより、懐かしい歌かな」
「聞かせてよ…。愛の言葉を」
「ねえ、梶子さん。徳穂さんたちがお待ちかねなんだけど、君は相当に疲れているようだね。しばらくホテルで休んでいるといい」
「ええ、早くホテルに連れていって」
 梶子は浩史の胸に顔をうずめたまま言った。もう自分は母親でも妻でもない。1人の若い女に戻って、この大人の男に甘えたかった。
「今夜の舞台開きのセレモニーには、コクトーが来てくれることになっているんだ。それまでに君の体力が回復してくれるといいんだが。僕は若いころ、コクトーに会ったことがあるんだよ。今回は彼のために連獅子の衣装を用意したんだ。きっと喜んで着てくれると思うな。そうだ、その前に藤田先生にごあいさつしておかなくちゃ…」
 梶子は彼の言葉をぼんやりと聞いていた。コクトー? まさか、あのジャン・コクトー? 藤田先生って、あのフジタ?
 梶子は自分が人生の岐路に立っていると直感した。この人についていこう。それ以外に自分の生きる道はない。
 彼女はいつの間にか浩史の胸の中で眠っていた。(つづく)

(※)岩元梶子のナレーションは「キャンティ物語」(野地秩嘉著、幻冬舎文庫)より引用。

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