【特集】グローバルを取り巻く“ロック”の再評価
USメインストリームにおけるロック再評価の流れ マシン・ガン・ケリー登場から“ロックスター像の在り方”までを問う
象徴としてのロックに共存する傍若無人さと正しさ
象徴としてのロックはというと、こちらは『The Sign Magazine』に掲載されたプレイボーイ・カルティ『Whole Lotta Red』評に小林雅明氏が書いているロックスター像とほとんど相違ない。特に頷いてしまうのは「『ロック・スター』をトキシック・マスキュリニティ(表現)の最後の砦と捉えることは簡単だ」(※1)という部分。閉塞感の強まる今、成功を収めながらも、ポリティカル・コレクトネスなどないものとしての傍若無人な振る舞いが、一定の支持を得てしまうことは残念ながら避けられないのかもしれない。もしくは、The 1975が最新アルバム『仮定形に関する注釈(Notes on a Conditional Form)』(2020年)でスウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリとコラボレーションしているように、環境やセクシュアリティ、人種、メンタルヘルスなど世界中で蔓延する問題について、リーダーとなって発信していくという在り方も若者の声を代弁するものとして機能しているだろう。傍若無人さとは正反対かもしれないが、政治や経済がシステミックに差別やストレスをもたらしていて、もはやほとんど“まとも”なものではないという共通認識が生まれている現在、正しさを歌うことが抵抗として強い影響力を持っているのも確かだ。そもそもロックというより、ポップミュージック全体の話になってきてしまった気がするが、ロックとは一体何なのか? と改めて今の若者たちに問うてみるのも良いのではないだろうか。
どちらにせよ、大衆の声を引き受けるアーティストたちはこのSNSの時代にあって、苦しみを抱くこととなるだろう。キャンセル・カルチャーも含めて、リスナーもアーティストとの関係性を今一度考えなければならない状況である。
さて、“ロックの再評価”というテーマからはだいぶ逸れてしまったように感じるが、振り返ってみるとロックのサウンド的な要素はヒップホップが全盛を迎えてもなお生き続けていたことがわかるし、若いリスナーに再発見されることで息を吹き返しつつあるのは間違いないだろう。象徴としてのロックについては少しシリアスになってしまったものの、音楽を楽しみ続けるために、アーティストもリスナーも“今”の当事者として、前を向いて考えていきたいところだ。
※1:https://thesignmagazine.com/reviews/playboi-carti-whole-lotta-red/